続 ・ たかがリウマチ、じたばたしない。

このブログは「たかがリウマチ、じたばたしない。」の続きです。喰うために生活することも、病気でいることも闘いです。その力を抜くこと、息を抜くことに関心があります。

大事な恋人がいれば解決してしまう不自由もある

ξ

新型コロナ騒ぎが続くと、人間世界のディストピアが大好きな終末論者は

人と人とが<非接触>となる未来を妄想し

夜の繁華街、旅行旅館業、その他接客商売はもう終わり

ライブハウス、コンサート、その他芸能イベントはもう終わり

スポーツ観戦、冠婚葬祭、華やかなパーティーはもう終わり

会社・組織に集合する仕事スタイルはもう終わり

要は人が濃厚に接触する習慣・文化はもう終わり

ほとんどはAIやらブロックチェーンやらで代替されるとなる。

当然、人類の生殖は「試験管ベビー」に移行する未来イメージとなる。

 

終末論者たちはなぜ、人の温もりが消えた、人間と社会が冷却冷温停止していくような未来しか描けないのだろうか。

ワタシが今後の可能性にワクワクするのはオンライン選挙(ネット投票)くらいで

終末論者のような、金属的な鈍い光を放つ皮膚をした孤独で無表情の人々がすれ違う未来社会を、まったく想像することができない。

未来は、人々が皆、ギクシャクしながら恐る恐る、再び手をつないで歩きたがったり、ハグしたがったりして、人のつながりを探し当て拡げていくプロセスなんだと思っている。

  

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ξ

ワタシたちは生物的自然に反して生きることはできない。

人間が身体と心からできている以上

理路整然と身体を語ってみても、人間であるアナタを語ったことにはならないし

真夜中の密室のような孤高の心を語ってみても、人間であるアナタを語ったことにはならない。

 

●身体が不自由であれば(痛ければ)、心も不自由に(痛く)なってしまう

●心が不自由であれば(痛ければ)、身体も不自由に(痛く)なってしまう

●身体が不自由であっても(痛くても)、心は自由でいられる

●心が不自由であっても(痛くても)、身体は自由でいられる。

 

これらはいずれも現実に起こっているフツーの人間の姿だ。

どこにも特殊なところはない。

しかし、どのプロセスにいても、その不可思議さに驚かざるを得ない。*1

  

身体が不自由であっても、どうして心は自由でいられるのか。

(身体の障害、痛みに付きまとわれているけれども、今日は、心は思いのまま、イキイキとしていられる。)

心が不自由であっても、どうして身体は自由でいられるのか。

(心が不調、具合が悪いけれども、今日は、ご飯は食べれた、2000歩も歩けた。大丈夫! 身体の方は簡単には壊れない。)

 

身体と心をひたすら恣意に任せるアディクション嗜癖)、依存、DV、テロまがい、犯罪)のでもなく

身体と心をひたすらコントロールする(抑圧、自傷のでもなく

 

自身と自身を囲む空間を、ある見識や理念の固まりで包むことができるよう抽象化してみる以外、いつまで経っても落ち着きが悪いのではないかと思い始める。

それ以外に身体も心も、まず解放に向かわないのではないかと思い始める。

それは正しいかもしれない。

 

しかし、 詰まるところ、ワタシたちは今日一日の解放を確保するにはどうしたらよいのか。

そのためにはある見識や理念の固まり宗教や思想や心身の訓練抜きに生きられないということなのだろうか。

 

いやいや、身体や心を無駄に追い詰めるのはやめよう、その前に、夢中になれる大事な恋人がいれば、解決できる不自由はたくさんあるぞ! ということの方が、生きている人間のスタート地点にふさわしいはずだと思える。*2