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時々ワタシがウォーキングをする遊歩道の、木陰のベンチに並んで座り、赤い「本麒麟」を開けている老夫婦を見かけた。
こういういくらかくたびれた感じのする老夫婦を見るのは嫌いではない。
もう十分生き切った二人が残余の人生を慈しんでいる時間のようにもみえるし
必需品にも事欠く節約だけの日々の憂さを二人並んで僅かでも晴らそうとしているようにもみえる。
でき得れば前者でありたいと思う。
振り返ればワタシなりに手抜きらしい手抜きもせず、損はたくさんしても、真正面から生きてきたと言えそうな気もするし
あとは自分が生きているうちに争い決着しておくものがまだ3つくらいはある、その始末だけが残った重要な仕事だと言えそうな気もするし
そうしたものが解決できた日には、この寝苦しい痛みを抱えてどうしてしつこく生きる必要があるだろうと考えている。
それまでは一日一善ならぬ一日一事で力を浪費しないように、生きてやれ! と思う。
ξ
ほとんど会話した思い出のない父と、労苦をいとわない働き者の母から成る家族共同体で
子どもであるワタシの将来のことなど、ただの一度も語り合ったことは無く
母は夕飯の片づけが終われば、あーぁ、寝るのが一番!
とか言いながら一日を終えるのが生きることだし、死ぬことなんだというような
たぶん絵に描いたような凡庸な中流下層でワタシは育ってきた。
だから父母がいなくなったあとに、誰のためかわからない物々しい法事などしたこともないし、毎年の墓参り(墓掃除)で、父母に、こんにちは! と挨拶するだけだ。*1
生きていたら良いことが起こるとはいえないし、人は幸福になるように生まれついているともいえない。
それらはフィクションであることはわかっている。
現在は違和の集合であるしかないから、人はその矛盾を解消するため生きる意味や価値の物語(フィクション)を膨大に創り上げてきた。
ワタシは神が人を試すように苦難を与え続ける聖書の物語には釈然としないが、欧米の人々がこの物語を腹の底の底から否定しきることはないのを見るに付け、物語の想像しがたい巨大さを感じる。
公的なイベントの際の決まり文句になっている神(やイエス)の登場は別にして
現在の救いがたい違和を受容しようとするとき、その摂理は神のものだからという合理化の仕方にもっとも安堵するから
時には、そんな馬鹿な、というほかない理不尽な現実を神が認めるはずがないとして、果敢に闘う勇気を正当化する究極の根拠にみえるから、だろうか。
ξ
人の生は死によって途切れて、あとは神の御許か知らないが、この世の存在ではなくなる。
必ずone wayであり、死と生を行ったり来たりはしない。
世界を覆う一神教の神もマテリアリズム(唯物論)もそう決めている。
いつからそうなったのか。
新石器時代のユーラシア東部の縄文文化も、ヨーロッパを覆ったケルト文化も、そうは考えなかった。
生はすでの死の中に溶け出し、死は新たな生を生み出していると考えていた。
古いケルトの伝承に起源をもつアーサー王と聖杯の物語は次のようである。
話しを分かりやすくするために引用に頼ってみる。
アーサー王はブリテン島を拠点とするケルト族の王であり、この島に侵入を試みるサクソン人と果敢に戦ったことで知られる実在の王である。
この王は城を構えず、いつも天幕を王宮にして、移動しながら統治をおこなっていたと言われる。・・・・・
古いヨーロッパの伝承によれば、十字架上のキリストの血を受けた杯であるこの聖杯は、その後アリマタヤのヨセフという人物によってエルサレムから持ち出され、マルセイユを経由してヨーロッパに持ち込まれたあと、すぐに行方が分からなくなってしまった。
一説にはケルト世界に運ばれて、そこで秘密裏に保管されてきたという。
この聖杯について適切な質問をおこない、正しい理解をもった者があらわれるとき、大地には水と緑と生命力がみちあふれ、あらゆる病気は癒されていく。
聖杯は現実の世界から隠された「力の源泉」をあらわしているのである。・・・・・
英語圏でいう「アーサー」はフランス語圏では「アルチュール」であるが、この言葉はもともと「熊」を意味するケルト語に由来している。・・・・・
北方世界における熊の存在を考えてみるとき、アーサー王の名前にはきわめて重大な意味が隠されている。
その世界で熊は偉大な「森の王」であったからである。
力(主権)の源泉は人間世界にはなく、人間の力を越えた自然の中に潜んでいるものだと考えられていたが、熊こそがそのような「超越的な主権」の体現者にほかならない、と考えられていたのだ。
天体においては大熊座とその中心である北極星が、「天上の熊」とみなされていた。
しかも北極星は動かない。すべての天体が、この星を中心に廻る。
人間の世界の外、そして人間の手の届かない遠い所あるいは次元の違う領域に、真実の意味で世界を司っている存在がいる。
まさに熊こそは、北方世界における「世界の王」だったのである。・・・・・
国家を持たなかった社会では、真実の「主権者」は自然の内奥にひそんでいると思考されていたから、人間の首長などが自分には「超越的主権」が授けられたのだなどと主張しても、誰もそんな主張を認めようとしなかった。
そうやって実際、新石器的な文化を守ってきた社会では、国家も王も生まれなかったのである。
熊のような偉大な自然界の主のものであった「超越的主権」を、人間の王が保有していると主張しても、それを嘘としてまともには認めない「知恵」が、その社会には残っていたからである。・・・・・
ところが、この世の王、世俗の王なるものが出現し、そこから国家という怪物が立ち上がって以来、真実の力(主権)の秘密を握る「世界の王」は、私たちのとらえる現実の表面から退いて、見えなくなってしまった。
そうなってしまうと、「世界の王」はむしろこの世で虐げられた人々、賤しめられた人々、無視された人々のもとに、心安らかに滞在するようになり、現実の世界の中心部には、「主権」を握っていると称する偽の王たちが君臨するようになってしまったのだった。*2
森の王、世界の王は、ただ未開の痕跡であるのか。
はるかな時間蓄積による耐久性が不明で、いまだその検証をしようのない世俗の人間の王が握る権力こそ未開で野蛮なものではないのか。
世俗の王は、ひっくり返せるのではないか。
ワタシは縄文的なもの、ケルト的なものに静かな関心を持っている。*3