続 ・ たかがリウマチ、じたばたしない。

このブログは「たかがリウマチ、じたばたしない。」の続きです。喰うために生活することも、病気でいることも闘いです。その力を抜くこと、息を抜くことに関心があります。

恋、こひ、孤悲とは何だろう

ξ

以前、アニメ『言の葉の庭』予告編で、「恋、こひ」に「孤悲」という当て字をしているのを見た。

おお、これ、なかなかいいね、と思ったが、その関連記事*1を書こうとして、万葉集に関する本を読んでいたら

「こひ」という古代日本語に、万葉の時代には漢字の孤と悲を当てて「孤悲」とした例は多いとのことで、それは固有の文字のない時代にあって、古事記日本書紀と同様、漢字表記するしかなかったからのようである。

つまり「孤悲」に現代的なしゃれっ気を感じて面白がっていたワタシは単に古典に無知だったに過ぎなかったわけだ。

 

この当て字は、かえって「こひ」の意味をよく伝えていて

そもそも恋とは、現在のように、相手と舞い上がっているような瞬間、時期の心情を意味するのでなく

相手から離れたときの、逢いたくてたまらないといった辛さ、切なさの心情を指すのだそうである。*2

 

恋が欠かせない寅さん渥美清を思い出してみると、毎度マドンナに一目惚れしては、ご飯も咽喉をとおらないほど溜息をついて2階に寝込んでいる寅さんの心情が恋ということになるだろうか。

 

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ξ

万葉集に沿うように考えてみる。

 

なかなかに見ざりしよりも相見てゆ恋しき心まして思ほゆ(巻十一、二三九二)

 

「相見ゆ」は性愛を意味する。

(あなたをまだ知らなかった頃よりも、知ってしまってからのほうが、逢えなくて辛い、苦しい心はずっと大きくなったように思えるのです。)

 

もうひとつ、七夕の牽牛と織女の物語。当時、歌遊びをするような人々には、七夕の一夜しか逢えない男女のエピソードは広く知られていたようだ。

 

さ寝そめて いくだもあらねばしろたえの帯乞うべしや 恋も過ぎねば(巻十、二〇二三)

 

(夜をともにして、たいして時間も経っていないのに、あなた(牽牛)はもう帰り支度、帯を取ってくれとおっしゃるのですか。こんなにも長くあなたに逢えなかったわたし(織女)の辛さ、苦しさはまだ癒えていないのに。)

  

ξ

そもそも恋(しさ)という心情は、どのように発生するのだろうか。

(しさ)が発生するためには、まず外部に相手がいなければならない。

 

しかし相手方が意識的であるとは限らない。

相手は無邪気な無意識なのに、一目見ただけでこちらは恋(しさ)で胸がいっぱいになったりする。*3

  

そうはいっても相手との交感が無ければ、自己免疫のような、心内部の余計な活性化、誤作動に似てくる。

何かの感情が、自分のなかでただ自己増殖しているのなら、何らかの心的な異常による妄想ということになるかもしれない。

 

ワタシたちは決してそうは思いたくないようだ。

相手とワタシの間には、何か心が交感する媒体があるのではないかと思いたがる。

質量も無いかもしれない、現在では計測できないかもしれない

相手とワタシをつなぐ精妙な媒体を中間に仮想してみたくなる。

 

その仕組みは磁極整列により力の交換がなされる磁場のようなものにも思える。

磁石ではない金属が磁場に置かれて磁石に変わるものがある。いままで自由に囚われなく振舞っていた心が特定の相手との交感により不意に(向きを持った)非対称に変わってしまうことがあるはずだ。

 

それが場の形成であれ微粒子の放射であれ、相手から何かが乗り移ってくるとみなすと

この恋(しさ)という現象のツジツマが合ってしっくり落ち着くようにみえる。

 

ξ

本当は、ワタシたちの心自体がこれらの現象全てを生み出しているに違いない。

本当は、相手とワタシの間に精妙な場も微粒子も想定する必要はないに違いない。 

しかし万葉の時代からそうは思われていない。恋のもと、原因は相手から乗り移ってくるものと考えられていた。

 

心的に乗り移っていく交感のプロセスを、物理的なタームの代りにとりあえず憑依といってみる。

 

それは、ワタシたち現生人類の(脳神経の)、身体から離れどこまでも拡張しようとする心だけが絞り出すことができる辛さ、切なさであり、また愛おしい美意識であったと思える。

 

➊ 心への憑依を自覚する

 

春さればしだり柳のとををにも 妹は心に乗りにけるかも(巻十、一八九六)

 

(春になるとしだれ柳の枝は、その重みを増してたわわに下がってくる。あなたはそのように私の心にしっかり乗り移ってきたのですよ。)

 

あなた(女性)が私の心に乗り移った、あなたが私に憑依した、こうして心を奪われた喜び、ときめき、心地よさを素直に歌っているように思える。

 

❷ 心と身体全てに憑依する

 

朝寝髪(あさねがみ)我は梳(けづ)らじ うつくしき君が手枕(たまくら)触れてしものを(巻十一、二五七八)

 

(あなたが帰った朝、私は寝乱れた髪を櫛でとかすようなことはいたしません。その寝乱れた髪はいとおしいあなたの腕枕にずっと触れていたのですから。)

 

この歌に凄みがあるのは、あなた(男性)憑依は私の心を突き抜け寝乱れた髪を通して全身に憑依しているのがわかるからである。

この身動きすらし難い、その憑依の支配の大きさや強度を推し量ることができるからである。

 

❸ 憑依は天変地異まで引き寄せようとする

 

君が行く道の長手(ながて)を繰り畳(たた)ね 焼き滅ぼさむ天の火もがも(巻十五、三七二四)

 

(あなたが都から流されていく長い道のりを手繰り畳んで焼き滅ぼしてしまう天の火を、私は欲しい。)

 

中臣宅守(なかとみのやかもり)を慕う狭野弟上娘子(さののおとがみのをとめ)の歌。宅守が遠く越前の国に流罪となった時の歌だそうだ。

あなた(男性)憑依は、心や身体を突き抜け魔物のように、天火まで引き寄せようとする壮絶な念を生み出している。

和歌は花鳥風月なんてぼんやり思っていると吹き飛ばされそうな歌だ。*4

  

(注:カッコ内の現代語訳は、ワタシの意訳です)

 

 

*1:yusakum.hatenablog.com

*2:

参考 : 大浦誠士『万葉のこころ』、中日新聞社、2008

*3:

一目(ひとめ)見し人に恋ふらく  天霧(あまぎ)らし降り来る雪の消(け)ぬべく思ほゆ(巻十、二三四〇)

*4:

yusakumf.hatenablog.com