続 ・ たかがリウマチ、じたばたしない。

このブログは「たかがリウマチ、じたばたしない。」の続きです。喰うために生活することも、病気でいることも闘いです。その力を抜くこと、息を抜くことに関心があります。

ケルトの「光」と「闇」の共存について

ξ

善と悪、光と闇、天使と悪魔といった対立する二元論は、無信仰のワタシにはサブカルチャー(エンターテインメント)の世界のありふれた空想にしかみえませんでした。*1

 

人はそもそも、善も悪もない、光も闇もない、天使も悪魔も無関係な場所で生まれたはず、つまり倫理や反倫理、義や不義なんか無関係に生まれたはずです。

当然でしょう。

  

この世に生まれてしまったこと自体に倫理も義も無く、生まれてしまったことの罪など問えないのに

社会規範だけが善や悪を持ち出し人を制約していきます。

 

ξ

その社会規範は、はるか昔から比喩的な光や闇、天使や悪魔の物語(神話)を作り出していました。

現在でも、ユダヤキリスト教世界の信仰には、二元論は深く根付いているようにみえます。*2

 

この世はサタン(聖書でいう神と人間の敵対者、悪魔)が支配していて

実はあなたの周辺にいる知的で善良そうな紳士も、夜となれば

赤い眼をした、裂けた口と、尖った尻尾を持つサタン崇拝の集まりに行っているらしい。

いまや私の周辺はサタンの手先ばかりのようにみえる。

なんと恐ろしいことだろう。

あぁ、神よ、きっと神だけがサタンを滅ぼしこの世と私を救ってくれる。

 

善は悪を必ず滅ぼすに違いない。

天使(ないし神)は悪魔を必ず滅ぼすに違いない。

光の世界は闇の世界を必ず滅ぼしこの世に光が満ちるに違いない。

 

ところでサタンとは誰なのか。

この上なく邪悪なもの、邪悪なものの集合らしいが誰なのか、闇の世界に隠れているのかさっぱりわからない。

ただ全能の神はすべて知っているのだから私などが知らなくてもよいのではないか。

 

いや、そんなことはありえない。

邪悪なものに現在的な固有名詞はあるに決まっている、誰を指すのかわからなければならない。

彼らが共同して、または暗黙に共謀して悪事をなしているはずではないか。

もし特定できないとすれば、ただの被害妄想という病理、そもそもサタンなどいないのではないか。

 

ξ 

この世を滅ぼすのも変えていくのも人間以外にはいないでしょう。

天使と悪魔や、光と闇の世界を考えてみる必要はまったくないはずです。

 

イザヤ書の預言あたりからはっきりする救世主(メシア)願望はなぜあるのでしょうか。

なぜメシアは現れ、サタンを滅ぼすため(機動)戦士として戦い我々を導かなければならないのでしょうか。

 

おぞましい邪悪なるものと、それに立ち向かうメシア「待望」して何が解決するのでしょう。

熱狂と、詰まるところそれが裏切られる失望だけをもたらすように思います。

 

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ξ 

ケルトの時代までさかのぼってみると、こういう二元論的世界の倫理だけで割り切っていくことは無かったようです。

 

中世のキリスト教信者にとっては、「悪魔」はしばしば「怪物」のイメージで想像された。

しかし、現代人にとってもそうであるように、「怪物」とは「邪悪」のシンボルであることを超えて、人間をはるかに超える活力・生命力をもつ、ミステリアスな生命として受けとめられることもあっただろう。

特定の「動物」を、神に対抗する悪の権化と理念で教えられても、人間の情念では納得に至らない。

なぜなら人間にとって「動物」はその生命力において最たる「荒ぶる自然」であり、時に神々しい「他者」であるからである。

中世人は美術でも文学においても、その両義性のはざまの「怪物」たちを描き出している。

・・・・・

『ブレンダンの航海』という中世アイルランドの航海譚は、キリスト教時代にラテン語でつづられる以前に伝承で語られた話の要素を混入させていることは間違いないだろう。

単純な二項対立の「区別」や「分別」を粉砕するパワーを、イメージによって浮上させる。

「聖人」と「怪物」は、本来は対立すべき二項である。

「聖なるもの」と「邪悪なもの」、「正」と「不正」、「光」と「闇」、「救い」と「堕落」の対立がキリスト教では明確である。

中世のアイルランドの人びとは、篤いキリスト者であった。

しかし彼らには幸いか不幸か、その透明な概念を飛び越していく想像力が備わっていた。

民衆の多くの「実感力」といったほうがいいだろう。

・・・・・

ブレンダンたちは海や不思議の島で出会う「怪物」によって「恐怖」と「ヒエロファニー(注:聖なるものの現れ)を体感する。

彼らが「動物」や「怪物」に衝撃を得ることができるのは、彼ら中世の人びとが「生活のなかに」動物への実感想像力をもっていたからである。

動物に真の畏怖や美しさを実感できない人間、現代人にとって、動物たちは「ぬいぐるみ」以上のものにはなりえないのである。

 

鶴岡真弓ケルトの想像力』、青土社、2018

 

ワタシたちが現在、人間とそのありふれた人間倫理を超えて他者(非人間的世界=自然や異界)想像力実感力を持てないところまで落ちぶれているとすれば

「動物」、自然、異界に対し、「かわいい」をキーワードに犬や猫のショート動画をペラペラ検索してみる程度の感受性しか持っていないことになります。 

引用した最後の一文は「ぬいぐるみ」としてしか非人間的世界を認識できない感性への痛烈な批判といえます。

 

ξ

北方の厳しい環境を生きるケルトの人びとは、10月31日以降の冬の時期を「闇の半年」とし、ようやく冬を終えた5月1日以降を「光の半年」としました。

10月31日は先祖の霊がこの世に帰ってくる祭日(万霊節)であり、その後キリスト教的に変質してハロウィンの原型になりました。

闇も光も等しく人間と共存する時間であり、交互に循環されるものと考えました。

 

もしワタシたちの想像力実感力を拡大できれば

光 対 闇、天使 対 悪魔そして善 対 悪の対立という不毛の倫理を乗り越えられる糸口を掴めるかもしれません。*3

 

 

*1:

yusakum.hatenablog.com

*2:

3000年前より始まり現在も信仰されているゾロアスター教や、すでに消滅したグノーシス主義、それらから影響を受けたマニ教、ボゴミール派、カタリ派などの宗教は、二元論的である。・・・・・

神学における二元論は、世界における二つの基本原理として、例えば善と悪というようなお互いが背反する人格化された神々の存在に対する確信という形で現れている。そこでは、一方の神は善であり、もう一方の神は悪である。また、秩序の神と混沌の神として表されることもある。 二元論 - Wikipedia

*3: 

yusakumf.hatenablog.com