続 ・ たかがリウマチ、じたばたしない。

このブログは「たかがリウマチ、じたばたしない。」の続きです。喰うために生活することも、病気でいることも闘いです。その力を抜くこと、息を抜くことに関心があります。

歩くときの腰の痛み、足の痛みの解消法

ξ

毎日になることは避けていますが、およそ1時間のウォーキングは頻繁にやってきました。

2018~2019年にかけて関節リウマチが再発(再燃)してからはゴルフは中断、また右前腕・手首の腫れ・熱感・痛みがはっきりしだしてからは軽量ダンベル体操も中断しています。

そこで運動はもっぱらウォーキングになっています。

 

ところが、やっかいなことに歩き出すとすぐ左臀部、股関節、膝、脛あたりが痛くなり我慢して歩くのでちっとも楽しくありません。

妻からは、左のシューズの引きずる音が目立つと言われます。つまり左足を引きずるように歩いているわけです。

 

いろいろ工夫はしてみました。

足先で歩く。

足裏中央の土踏まずを意識して歩く。

かかとで歩く。

膝を上げて歩く。

膝を伸ばして歩く。

やや前傾して歩く。

腰を伸ばして歩く。

天から吊り下げられているような姿勢で歩く。

靴が擦るのだからとにかく足を上げて歩く。

 

こんな具合に、1年くらい試しましたが、無理に擦り音がしないように歩けば足腰が痛む、足腰が痛まない姿勢を取ると足を引きずる、というようにうまくはいきませんでした。

 

整形外科では、腰椎や股関節に歩けないほどの深刻な変形、損傷はみられない、したがって、せいぜい①湿布、②消炎鎮痛剤(NSAIDs)、③腰部固定用のコルセットまでの処方になります。

関節リウマチ発症前には無かった痛みであり、発症後の廃用や加齢退行もあるかもしれません。

 

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ξ

いずれにしろ歩くのがどんどん苦痛になっていくようではワタシは生活できなくなります。

まったくの偶然ですが、やれやれと思いながら公園遊歩道を歩いているとき気功法を思い出しました。*1

 

それは次のような方法です。

❶臍の下付近の身体前面で


❷右手指を腹に向けて左旋回(反時計回り)させ

 

❸腹のなかから痛みの気(け)を、すぅーッと抜いていくように右手を身体から遠ざける。


(東日本の人向けかもしれないが)すぅーッと抜いていく加減は、腹から納豆の糸を引いていくような視覚イメージである。

 

❺歩きながら、この動作を何回か繰り返す。

 

❻数分のうちに、違和感は残っていても歩けないような痛みはほとんど消える。消えるというより痛かったことを忘れていることに気付く。こむずかしい歩き方は一切考えることなく、左足を引きずる音は無くなり、左右同じ靴音になっている。

 

❼痛みが残っているようなら、この動作をウォーキング中繰り返す。

 

❽ウォーキングの終了時には、今度は右手を頭上の空の方向から右旋回(時計回り)させ腹に手のひらを当て気(き)を収めて終る。

 

まったく馬鹿げた動作かもしれず、なぜ痛みが消えるのか現実的なわかりやすい説明ができません。

しかし毎回のウォーキング中、(ワタシには)同じ効果が得られます。

マユツバもの、噴飯ものにしか聞こえないかもしれませんが、歩くときに足腰が痛み、それが原因もよくわからないまま長く続いているのであれば、試してみてもよいのではないかと思います。

人畜無害とまでは言えそうです。

 

ξ

自然はおそろしく長い時間をかけて人間を生み出しました。

なぜ人間なんて生み出したのかはわからない。

なぜ? と、このことを深刻に考えてみても、現在得られるものは少ないように思えます。

しかし人間の発生の根拠は自然です、自然以外にはありません。

 

人間の身体は脳・中枢神経系を発達させ、心を生み出しました。

心は身体を離れ、いくらでも拡張しようとします。

心は未来の自分を心配する心を心配する心まで持っています。

しかし心の発生の根拠は身体です、身体以外にはありません。

身体が消えれば心は消滅します。

 

身体に対し、心を極小まで縮小してみるとき、原生生物のような生命を考えることができます。

動物的生命は、原生生物の時代から外的環境(に存在する他者)から逃走攻撃捕食し、そして修復生殖する自然を生きてきました。

たとえばワタシの免疫の中核となる白血球を構成する細胞マクロファージなどが異物を捕食し消化するサマを思い描けば

自分の身体が生物の膨大な歴史の積み重ねからできていることが想像しやすくなります。

環境(他者)から自己を区分できる動物的生命は、逃走、攻撃、捕食、修復、生殖などを原初の行動規範としてきたといえます。

 

ξ

人間の心は、時空間に制約された不自由な身体とひたすら無関係に振舞いたいと思っていますが、良くも悪くも身体と影響を与えあっていることは否定できません。

立禅とも呼ばれる気功法や座禅(瞑想法)が、身体に何らかの影響をあたえるとすればそのメカニズムはどのようなものでしょうか。

 

ワタシには、身体から独立した心が、遠隔でものごとを透視したり動かしたり治療したりという事態があり得るとは思えません。

それは心の念動力とか念波とか物理的な力や場を想定することになるからです。*2

ものごとを透視したり動かしたり治療したりすることは身体から独立したい心の夢(フィクション)としてわからないわけでもありませんが

立禅や座禅の結果、みずからの身体が変容するとすれば

それは心が何か神秘的な力=「フォース」を得て身体に侵入できたからではなく

心が生み出したに過ぎない架空の高次元意識に接触したからでもなく

その正反対、実際には、心がひたすら縮小して、いわば身体だけに、原初的な身体の自由だけに自分を「預ける」(=解放する)ことができたからだと考えられます。

 

ξ

人間が身体に脳・中枢神経系を持つ以上、原生生物に戻ることはありません。

ワタシたちが五感を通して

頬にあたる風の匂いを感じ 

風の梢に絶え間ない嬌声を感じ 

あなたの手の甲の血管に流れる温かい命を感じ 

あなたの隣にいる人の泣き笑いに愛しさを感じ 

あなたの外界に新たな他者(異界)を感じるのは

日常の仕事に集中するように心を研ぎ澄ましたからではなく

その正反対、心から自由になった身体に自分を「預けた」から、と考えられます。

それは心が縮小すれば身体は(自然に)動き出す、というような意味合いです。

 

いままでの療養中、心を酷使しない、心をもてあそんだりしない、と執念のように唱えてきました*3  *4  *5が、いま考えてみると、立禅や座禅の叡智に、もし心をひたすら縮小することが含まれていたなら、大きくは誤っていなかったかもしれません。