続 ・ たかがリウマチ、じたばたしない。

このブログは「たかがリウマチ、じたばたしない。」の続きです。喰うために生活することも、病気でいることも闘いです。その力を抜くこと、息を抜くことに関心があります。

マルクス主義はもはや可能ではないと思えること その2/2

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資本主義を克服する先進ヨーロッパ発・近代思想の総決算である共産主義が、最終段階として実現しなかったことは、ヨーロッパ思想にとって大きな衝撃(敗北)だったと言われる。

その先進ヨーロッパを追い込んだのは、ハッキリ言えば結局、マルクス主義の次のような点だ。

 

❶ 如何にして人は私的所有をあきらめることができるか。

❷ 如何にして人は資本家になる夢をあきらめることができるか。

❸ 如何にして人は暴力革命に参画することができるか。

 

ワタシは今、都市郊外に住んでいるので、「土地持ち(非)農家」の豪邸にたくさん出会う。

その周辺に、彼らの所有しているアパート・マンションが多数あり、たいていはカーテンがかかっているのでほとんど埋まっている。

その住人たちは、複数台用の大型車庫を持つ大家の豪邸の前を毎日のように通り過ぎては

世の中の理不尽な、生来の格差に怨念を抱いたり呪詛を呟いたりしているかもしれない。

 

いつかこういう家に住みたいと思うなら、芸(能)人・トップアスリートや資本家としての成功を目指すのが有力な手段であることはわかっている。

「持たざる者」は、知恵と工夫と努力、絶対成功しようと「持てる者」を夢見るのは当然である。

アメリカも同様かもしれないが、どんなに世の中がその困難を語ろうが「アメリカンドリーム」は否定できない。

これは誰でも想像できるはずだ。

私的所有増大や資本家(=端的にはカネを増殖する不労所得階層)への夢をあきらめさせることは、ただ支配への屈従、生きる意味の喪失を強いるものに見える。

 

人は未開の時代から、近縁哺乳類よりはるかに高度な知性を発揮して、仕事(狩猟・農耕)をさばく手際の良さ・効率を求め、心身の負荷を軽減するように生きてきた。

創意工夫し続ける知性、余剰蓄積を可能にするその知性は、まったく人間的なものといえる。

 

ξ

誰のための暴力革命なのか。

先進資本主義社会で、なぜ、いまどき、人を殺したり自らの命を捨てることを覚悟しなければならないのか。

党のため、大義のため、国のため?

それが愛する人・家族のためというフィクションで人々を動員するバカバカしさは、300万人もの日本人が死んだ戦争でたっぷり経験したではないか。

 

そして、少しも「過渡的」ではなかった一党共産党独裁一国社会主義国家は、個人の自由と公平の制限、弾圧・粛清を生んだ。

弾圧・粛清が現実であれば、党の論理の前に押し黙ることこそ正義であるというように、必ず論理のオカシな転倒が起こる。

(全体利益を優先し、部分利益を犠牲にして奉仕することこそ正義だ!)

これが先進ヨーロッパに衝撃を与えた。

 

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ξ

こうして原理的なマルクス主義は不可能になり

単に資本主義を修正・緩和しようとする思想、余剰の分配をめぐって保守と争うリベラル思想に近接するまで変節してきた。

 

再びやってはいけないことはハッキリしている。

その一つは全体主義の錯覚であって、20世紀の社会主義革命の最大の過ちと言われる。*1

 

それは

❶ 経済の領域における分配の公正化のためのシステムの計画性

❷ 政治の領域における一党支配=民主主義の否定

❸ 思想・言論の領域における統制=自由の否定

3つを不可分に必要とすると考えること。

 

習近平中国は、言うまでも無く❶~❸のすべてを党の支配(政治支配)に置こうとしている。小さいところでは日本の近くに「キム王朝」に過ぎない後進国家もあるが、それと何ら変わらない先祖返り、復古的な後進性に囚われた国家といえる。

 

上記の❶~❸の両立については、20世紀末からすでに北欧諸国で試行途上にあるとのことである(前掲書)

経済の領域における物質的な生活諸条件を確保するための再分配のシステムと、思想・言論の領域における自由と、政治の領域における民主制とが、現実的に両立可能であるとしている

しかし習近平中国(やロシア)が、現在、このような可能性を理解することはほとんどないと思える。

 

ξ

資本主義社会の根本となる資本は、商品と交換されるカネだけを意味するのではなく、必ず投資によって増殖しなければならないカネである。

資本の増殖のみが資本主義社会が発展していく動因だからである。

 

しかし人間は資本主義に有用なだけの無敵のアンドロイドではないのだから

身体も心も必ず資本主義から逸脱するように存在している。

このため時に、カネばかりか身の破滅や死を招くだけの、ただの消尽としかいいようのない行動に強く誘惑される。

そのような行動を目撃し、せせら笑っても、どこか全否定できないシコリが重石のように胸の底に溜まる。

 

一方、政治経済的には20世紀末にソ連が解体し

資本主義こそ共産主義(その過渡的体制とされた社会主義に優越する体制、資本主義こそ最終・永久的な世界支配のシステム

と思われたのは、2008年の世界経済危機リーマン・ショックまでだった(前掲書)

 

こうして現在、資本主義社会も、常に抑圧的に人に覆いかぶさり、個人の自由や解放を実現する最終の理想社会とは信じられないものになっている。

つまり人もその思考もその成果物も自然も、力づくで(等価)交換の世界に押し込んでしまう資本主義が最終到達系でないことはハッキリしている。

 

ξ

ざっくばらんに言えば資本主義社会は

創意工夫してどこまでも際限なく貨幣を蓄積していく魅力(カネがあってこそモノが言える世の中!)

貨幣という価値に圧倒的に脅かされた、数えきれない(身体や心の)消尽諦念感傷絶望

どう折り合いをつけるかという課題を生む。

 

これを一人の人間の内に潜む課題としてみれば

考えつづけることによって、おのれの傲慢さからも他者への侮蔑からも免れることができれば

自身の生活思想に、穏やかな豊かさを付け加えることができるように思える。

 

また、これを人々の間の課題、社会を構成する層の課題としてみれば

考えつづけることによって、「ポスト資本主義」「資本主義後」という未解決の全世界的課題にタッチできそうに、届くことができそうに思える。*2