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最近になって、ようやく『海上の道』(柳田国男、1875~1962)を知り読んだ。
これは日本人の南方起源説を主張したものであり、発表は1952年だが多くの研究者に衝撃と影響を与えたそうだ。
稲作は中国南部揚子江河口域あたりが発祥であり、そこから島伝いに日本にもたらされたという考えだ。
日本における稲作の起源と原日本人とが結びつけられている。
つまり日本人は次々航海に乗り出していった「海民」に由来しているというとても魅力的な説だ。
柳田国男の緻密なフィールドワークにより、琉球(沖縄)などの島々の古い伝承・祭祀に稲作技術を伝える「技芸」が様々に登場していることが根拠になっている。
また、遥か南方の未知の場所から(有名な)「椰子の実」を漂流させてきた海流(黒潮)の存在が、日本列島に向かう「海民」を力強くサポートしただろうという、ずば抜けた想像力も着想の底にある。
こうして日本近海の島々を経て次第に本土へも稲作がもたらされたと主張したのである。
これは縄文期にあたるが、当時の日本人が漁労・狩猟・採集に加えすでに稲作栽培を行っていたことは現在では広く知られている。
せいぜい2千年前の朝鮮半島からの稲作栽培伝来説より、はるか以前に日本に稲作はもたらされていた。
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(ここはワタシの空想の世界に入るが)
ユーラシア大陸中央部に起源を持つモンゴロイドは、間氷期に徐々に草原や森林が北方に形成されるにつれ移動を始めた。
それは温暖化の結果、狩猟・採集の対象になる動植物が豊かな緑の地域が拡大されたこと
増大する人口に対して(近縁哺乳類と同様に)敵対者のいない安全なテリトリーを確保する必要があったこと
が動因と思える。
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遺伝子分析によれば、現日本人は縄文期と弥生期に日本列島に住んでいたモンゴロイドの混血であり、大陸東アジアの人種とは遺伝子構成が異なっているとのことである。
この説明は納得がいく。
最近では、都道府県別に縄文系と弥生系の混血の度合いを遺伝子的に調べた面白い研究がある。
(2020.10.14)都道府県レベルでみた日本人の遺伝的集団構造
約11,000名の日本人のDNA塩基配列の違い(SNP)による遺伝子比較の結果、現代日本人は、琉球型、本土型に分かれ、いずれも中国型(北京、漢民族)とは、明瞭に異なる(同じクラスターに収められない)ことが確認された。
地域別にもたいへん面白いことがわかっている。
沖縄からの遺伝的距離が近縁となる地方をまとめると、沖縄、九州、東北である。
それからもっとも遠い地方は、近畿、四国である。
これは日本の古代史を思い返してみると
大陸からの渡来人に先立ち原日本人と呼べる固有の人々が日本列島にいたこと
大陸からの渡来人との混血がより大きく進んだ地域があったこと
などの知見があらためて裏付けられたことにもなるだろう。*1
他の地方は、その中間に入ることになるが、関東と中部の各都県は同じ遺伝子的クラスターとしてまとめられないとのことである。
簡単に想像がつくように、移動が激しく多様な人々が混在している地域ということかもしれない。
ξ
遺伝子レベルでの研究をすすめれば、原日本人の中心となる縄文系も、数万年前のユーラシア中央部のモンゴロイド起源の場所にたどり着くだろう。
しかし日本人とはどのような人々なのかと考えるとき、(それこそ)どのように考えたらよいのだろう。
遺伝子的に共通性が認められる「日本人」であれ、日本列島に住むことも無く日本語も母国語としない人々は世界中にいくらでもいる。
もちろん反対に遺伝子的に「日本人」でない人々(外人)が、日本列島に育ち日本語を母国語とする人々もいくらでもいる。
遺伝子的な出自がそのまま日本人の文化的無意識を形成する、などとは考えられない。
ξ
柳田国男は、日本各地の習俗や神々の伝承・神話は、中国大陸南部、台湾からインドシナ、インドネシア、ポリネシア、ミクロネシアなどの島嶼の環太平洋先住民文化と共有されていることを確信していた。
それは明らかに
海流に乗って、名も知らぬ遠き島より流れ寄る椰子の実、という南方原郷への無意識と
より豊かな新天地(財産)を求めて北へ、遠くへ向かう飽くなき生命衝動の無意識を
共に生み出してきた。
(再びワタシの空想の世界に入れば)
ワタシが原郷(文化的無意識にある記憶)を思うとき、常に
広大な大陸の風の荒涼たる静寂よりも
亜熱帯の、溢れる緑の、鳥獣の鳴き声が遠く、ひっきりなしに聞こえてくるような騒めきを、胎内のように思い描く直観とも一致している。
ξ
遺伝子レベルでの人種の解析は、人類の移動や交流の強い手がかりになるだろう。
しかし文化的無意識の形成とは次元を異にしている。
『海上の道』は
現在の通説かと思われるのは、ちょうど縄文期と弥生式期の境目の頃に、この国へは籾種が入って来て、それから今のような米作国に、おいおいと進展したらしいということらしいが、それがまず自分には承服しがたい。
あらゆる穀作にも通じて言えることだが、稲にはことに年久しい観察に養われた、口伝とも加減とも名づくべき技芸が備わっていた。
籾種ばかりただひょいと手渡しされたところで、第一に食べてみることすら出来ない。
と述べてそれまでの通説に疑義を呈し、日本の稲作の起源の考え方について述べている。
新たなものを受容するとは、「口伝」、「加減」、「技芸」として伝えられる核なるものがあるはずだとした。
これこそ、文化的無意識に厚み、豊かさを加え、また変更していくものになる。
現在のワタシたちが陥る字づらだけ、薄っぺらな言辞では何も変わらない。
稲以外の作物や採取物の、飢えを医するに足るものは以前も多く、その中にはあるいは起源の稲よりも古いものが、あるかも知れぬと思うにもかかわらず、注意せずにはいられない一つの特徴は、・・・あらゆる民間の信仰行事から、歳時暦法の末に至るまで、専ら稲の栽培収穫を目標として行われて来たことだった。・・・
これにはまた二、三の重要なる点において、四隣のいくつかの稲作国と共通のものが、指示し得られるようになってきたのである。・・・
おいおいにその伝来の路筋を明らかにし、ひいてはこれを携えて東海の島々に進出した一つの民族の、故郷はどこであったかが判って来る望みも、まるまる無いとまでは言われぬのである。
これはワタシたちの原郷、起源には、文化的無意識を時間的に空間的にたどろうとしない限り決して到達できないことを語っている、と言い換えることもできそうである。
「籾種」がひとりでに日本近海島々に流れ着くことはないのである。
これは文化の受容とは、壮大なプロセスを経ていくものなのだ、と言われたように沁み込んでくる。
当初の稲作の受容が、平和裏に推移したのか支配力による強制があったのかはわからない。
しかし社会規範と呼べるものがこのように時間的・空間的に移転され受容されていくものとすれば
現在みられる、脅迫・弾圧による規範の強制的な移転と受容など、決して文化的無意識には到達しないと強く思える。
時代を変える、時代が変わる、とは権力の表面的な行使ではどうにもならない、と信じられる。
(遠い勇敢な祖先、ユーラシア中央部から北上したモンゴロイドは、ついにベーリング海峡を超え、その後、数百年のうちに、南米チリの突端にまで到達してしまった。)