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もう、初夏
田植えを終わった水面に青い空がくっきり映っている。
地平線に向かって歩くと、遠くの白い雲が下から上に大きく湧き上がるようにみえる。
真夏の入道雲に似てきた。
最近は、外を歩くとき、ワタシはマスクをしていない。
つい先日、歩道で、横からの風雨を避けるように日傘をワタシの方に傾けた女性とすれ違った。
ワタシがマスクをしていなかったからかもしれない。
いよいよマスクに関する(自主)規制も緩んで
多くの人が街なかで、マスクをしなくなる時期が来れば、この人もきっと、すれ違う人のことなど気にしなくなるだろう。
もともと家族では、まん防であれ緊急事態であれ、関係なく飲食店に出かけていた。
酒類を注文できるかどうかの違いくらいでなんの不都合もなかった。
大声が飛び交いガヤガヤした居酒屋はさすがに止め、知人が発案したズーム飲み会を現在でも継続している。
6月からオンライン会議も実出席が可能になり、どちらでもよいことになった。
今のところ、ワタシがマスクをするのは、通勤時間帯に満員の電車に乗るときと、密集した会議のときくらいでよいのではないかと思う。
外出時マスクはすべきだの、いやマスクはそもそも不要だの、わざわざ騒ぎに参戦してカリカリしてみる必要はまったくない。
コロナ騒ぎはもう終息している。
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いまはコロナより、物価上昇の問題の方が目立つ。
(2022.5.20)4月の消費者物価2・1%上昇…資源価格の高騰と円安が影響、7年ぶり大台に : 読売新聞
エネルギー・食料品価格の上昇対策について、現政権は、非課税世帯らに対する直接給付を目玉にしただけで、中間層は無視されている。
岸田内閣の「分厚い中間層」の形成はどこに行ったのか、絵空事か。
安定したマジョリティとしての自信が揺らぎ出し、かといってマイノリティの振りをすることもできない節約だけの中間層が、ついに踏みこたえられなくなっていけば、社会の安定性は憎悪・軋轢・分断により損なわれるだろう。*1
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アメリカは、主要都市を旅行したくらいで暮らしたことは無い。
だからその情報はマスメディアのニュース映像やWebニュースに依存している。
しかし自分と引き比べて共感することも少なくない。
コロナ後のオフィス再開で感じられた喜び、について次のように語っている記事(WSJ)を見た。
(2022.5.19)
通勤には40分かかる。職場のチームが出社しているわけではない。
それでもそこにいることが好きだ。
他の人々が周りにいると自分を取り戻せると感じる。
力が湧き、聞こえてくる会話の断片から新しいアイデアが浮かんでくる。
「昔の自分が戻ってきたみたいだ」と、・・・ジョンソンさんは言う。
ずっと家にいられる在宅勤務生活に抵抗があったわけではない。
ジョンソンさんは朝からヨガをし、健康的な食事を作り、犬を飼う生活が気に入っていた。
それでも「バーチャル・ハッピーアワー(オンライン飲み会)に誘われても、もう耐えられない」とジョンソンさんは話す。
「出社すると自分でも驚くほど疲れているけれど、それでもオフィスにいるほうがはるかに幸せだ」
「誰が会社の電子レンジを恋しいと思うだろうか」とホールズワースさん。
「でもそこに座って食べ物を温め、5秒だけでも他の誰かと言葉を交わすことができる」
食べ物が温まるのを待っている間、あるいは会議室に入ろうとするとき、私たちは「オフィスにいる自分」を再び取り戻す。
とてもわかる感じがする。
スタンフォード大学ほか2大学の共同調査によれば、従業員が在宅勤務をしたいと考える日数は、2020年以降、最近になるほど短くなっている(2.5日➡2.1日)そうである。
理由としてオフィス勤務では、❶対面で協力できること、❷社交、❸まともなオフィス機器が利用できること、が挙げられたそうである。
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彼らはオフィス再開で、単に元に戻ったという喜びだけでなく、微妙に職場も自分も変わっていることを発見した。
「実際、元に戻ったのではなくもっと良くなったと感じる。プレッシャーの一部が消えた」と、首都ワシントンの弁護士ジル・デービッドソンさんは言う。
最近になって月曜日にデービッドソンさんに電話した時には、彼女はオフィスのスタンディング・デスクに寄りかかって働いていた。
お気に入りの高性能プリンターは部屋のすぐ横にあるが、オールバーズのスニーカーを履いて、薄紫色のスウェット素材の巻きスカートという格好で、ノーメイクだった。
オフィスは以前よりカジュアルで快適に感じられて、人々には仕事以外の生活がある証しだと彼女は言う。・・・
「仕事と家の区別がつかなくなる」とデービッドソンさんは完全なリモートワークで過ごした時間について話す。「仕事の他にもやることはあるのに」
なんと素敵な発見、喜びだろう。
人間に天賦のように備わっている詩心、ポエジーが鳴り出しているのがわかる。
ワタシたちにベタッと固着していただけの生活や仕事や職場が、フワッと膨らみ、ワタシたちに近づいてみたり遠ざかってみたり自由に振舞い出した。
新たな詩心、ポエジーが生まれ出した。
人間の心から困窮や差別や小賢しい「正義」を引き算したあとでも、必ず残る人間の詩心、ポエジーの価値をまったく理解できない頭の持ち主はいる。
なぜフィールドハラーやワークソング(=ブルース)が常に生まれ続けるのかわからない、しかめっ面の人はいる。
ワタシたちを通り過ぎる社会的抑圧を、ただ拡大して、凍りついたガチンガチンの自傷的宿命論しか描けない頭の持ち主には鳴り出すことの無い音楽(=ブルース)がある。
社会的抑圧を、その場所に居たまま、さりげなくアシラッてきた人々の想像力がわからない頭の持ち主はいる。
こういう頭の持ち主は「人の一生は重き荷を負うて遠き道を行くが如し」という、反リラックスの凍りついた生の価値以外は、きっと正しい道(「正義」)にみえないのだろう。
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ズームを使ったオンライン会議で会議室の大画面スクリーンに最初に自分の顔が映し出されたとき、「これは嫌いだ」と思ったという。
新年が明けて、職場に帰ってくる同僚は増えた。
オフィスに喧騒が戻ったが、これまでよりも柔軟になったとも感じた。
フォスターさんは、今では帰宅ラッシュに巻き込まれたくなかったり、娘の学芸会に参加したかったりすれば、早めに帰宅する。
「これまでも、いつもこうあるべきだった」と彼は話す。
同僚の1単語だけで送ってくるメールの返信を解読しようと苦労するよりも、直接会って話せばボディーランゲージを読むこともできる。
また、金曜日の午後3時にだらけてしまいそうだと思ったとき、見渡すと同僚たちはコツコツ働いていて、一緒に頑張っていると感じることもできる。
「直接会ってみると全く違う。それも思っていたのと違い、良い方にだ」とレフィングウェルさんは語った。
本来、椅子に座ったままクルリと後ろに向いて話しかければ済むことを、ニュアンス不明のメール文で読まされたり、採光悪く表情がさっぱり伝わらない矩形の映像だけの平板なズーム会議に出てみたり、それは言葉にしがたい「異常」だったろう。
タイパ(タイムパフォーマンス)など口走ってみる、それはワタシからみれば、単にイライラに常に浸っていたいだけの自傷的な神経障害に思える。
コロナが過ぎてしまえば、「アフターコロナ」も無く「コロナ後の世界」も無く、元に戻るほかないのだが
● 自分と仕事との関係、その人間関係が微妙に温かく変わっている
● 冷淡にみえた職場が妙にリラックス(安らぎ)をもたらすように変わっている
といった発見に、人はワクワクと喜びを感じている。
それは、人間の本性である詩心、ポエジーが発現したからといえる。*2
それはまた、いったん異界に行ってしまうと、ありふれた日常に戻ってきたとしても、この世は、以前とは微妙に異なる別「世界」になっていた
という『千と千尋の神隠し』(2001)のラストシーンの詩心、ポエジーの膨らみにも、よく似ている。