これは
の続きです。
ξ
you tubeを検索していたら、どういうアルゴリズムかまったくわからないが、不意にコカ・コーラの “I feel Coke” のCM動画に飛んだ。
まともにテレビを観たことが無い(持ってはいましたが)ワタシには、初めて観る新鮮さで、何度も繰り返し観た。*1
信じられないほどの全肯定の明るさ。
いまどき、ここまでの全肯定は無理。
男女とも、カチッとしたスーツ姿。
都心のオフィス街、初夏の昼下がり。
明らかに80年代後半から90年代前半までの無条件の明るさ。
ξ
20世紀後半、一流企業の女性社員には、固有の事務服が支給されていた。
事務服のデザインを見れば、どこの大企業に勤務しているのかわかった。
昼休みには、事務服のまま、オフィスの外で食事をしてみたり、デパートでちょっとした買い物をしたりしていた。
それは当時のステータスだった。
1986年に男女雇用機会均等法という、多くの人がその中身はよく知らないものの、胸が膨らむような美しい名前の法律が施行されてから、ほんの少しづつ企業社会は変わった。
90年代には、いつの間にか女性社員の事務服は廃止され、一流企業の女性は、スーツ姿に変わった。
もちろん男性の仕事着は、ワイシャツ・ネクタイが必須だった。
だから “I feel Coke” のCMは、90年代を先取りしていたとわかる。
それは地域採用職が消え、総合職に一本化されていく過程とも見合っていた。
ξ
ただ手放しで絶賛とはならない。
このCM動画の裏側は、ワタシたちは「この支配からの卒業!」(1985)という尾崎豊の叫び声が拡散していた時代だったことも知っている。
しかし現実には、そうした裏側を捨て、(崩壊する極点に向かって)急上昇するバブルの勢いでまとめ切った、こういうCM動画の高揚が大いに受け入れられた。
それが世界基準のグローバル企業からの影響を避けられない場所(空間)にいた、都心の大企業で初めて可能なファンタジーだったとしても。
そんな時代もあったねと。
ξ
しかし次々、同じ “I feel Coke” の動画群がチェインのようにつながっている様子を見てみると、さらに海外からも日本のこのCM動画がアップされている様子を見ると
到底、同時代を生きた今のオッサンオバサンたちがノスタルジアで拾っているだけでは再生数の説明がつかないようにみえた。
この時代にはまだ幼すぎた現在の若者たちが
あるいは、この時代まだ生まれてもいなかったZ世代のような若者たちが
バブル的高揚に巻き込まれた経験も無く、平行宇宙のようだった尾崎豊も知らないまま、このCMに惹かれているとすれば、それはなぜだろうと考えたくなる。
ξ
現在、人種の差異を問うこともなく、年齢の差異を問うことも無く、男と女の差異を問うことも無く、性自認の差異を問うことも無く
互いにいったい何者なのか立ち入ることも許されず、人々は、ただ人間であるだけの抽象されたアンドロイドとして集合するようになっている。
そしてフラッシュモブのように高揚してみても、解散すればまた沈黙するアンドロイドにバラバラと戻る。
しかも、そのフラッシュモブですら、遠い目線の何者かによって誘導されているようなニオイがいつも付きまとっている。
なぜ人種の差異をおおっぴらに語ることを口ごもってしまうのですか。
なぜ年齢の差異をおおっぴらに語ることを口ごもってしまうのですか。
なぜ男と女の差異をおおっぴらに語ることを口ごもってしまうのですか。
なぜ性自認の差異をおおっぴらに語ることを口ごもってしまうのですか。
もっといえば
なぜ人の美醜をおおっぴらに語ることを口ごもってしまうのですか。
なぜ・・・・・。
これはフォーマル・インフォーマルな弾圧や抑圧以外の、なんであるのか。
ひたすら息苦しいのである。
ξ
この明るい、無条件の全肯定といえる “I feel Coke” 動画は
男女の男性性、女性性をそのまま「均等」に、大都市に振りまいたファンタジーであり、観る者に、解放や調和を感じさせている。
男女の男性性や女性性を存分に振りまくことに、その躊躇も抑圧もない。
どこにも複雑さのない、ある意味単純さ、率直さが、観る者の気持ちを解放し調和させているのかもしれない。
これはJR東海クリスマスエクスプレス初期の、深津絵里版(1988)と牧瀬里穂版(1989)の、魅力的なCM動画と共通するものだ。*2
あるいはドキュメンタリー映像でみた、昭和ポップスに惹かれた10代の少女の「こんなに正直な言葉でしゃべって歌ってもよかったのですか」と驚いた様子と共通するものだ。
たぶん人々は、そしてワタシは
人間の自然性の抑圧=生命衝動(生命力)の抑圧を恐る恐る拒絶し始め、その抑圧が破たんしていく未来を希望し、動こうとしている。*3 *4