続 ・ たかがリウマチ、じたばたしない。

このブログは「たかがリウマチ、じたばたしない。」の続きです。喰うために生活することも、病気でいることも闘いです。その力を抜くこと、息を抜くことに関心があります。

続 ・「無名歌」のこと、私論 ~ 今週もよく頑張りました

これは

「無名歌」のこと、私論 ~ 霊的な場所

の続きです。

 

ξ

日常(リアルといえばリアル)のあわただしさ、重苦しさ、その不安に、追い立てられ、それ以外のことを考え込む気力・体力を維持しにくい。

 

一日48時間欲しい、などと言いながら鼻歌まじりに3~4つの業務を並行してこなしていた遠い時期のように、自分を追い込むことが難しい。

最近は一日に、1~2時間(ソファーに)横たわるような生活をしている。

これが現在の心身にちょうど良くなっている。

だからあわただしい振りをしてみても、実際には業務量全体は落ちていることになる。

 

以前のような生活をすれば肉体がおかしくなるのが身に沁みて分かったから(復調するとつい明方まで没頭したりして)、難しくても、はやる心は改めなければいけないことになる。

 

一日ごとに、夜、寝床のなかで、今日もよく頑張りました、と言うことはできない。

今日、依頼したり、手配したりしたことの結果は今日にはわからない。

未完のまま、どこか重苦しいまま、不安なまま夜を迎える。

しかし週末には、今週やれることはとにかく全てやりました、という感触は得られる気がする。

毎日は無理だが、週単位、週末には、今週もよく頑張りました、と区切りを付けられる生活はできそうな気がしている。

今週もよく頑張りました、と言える生活は続けたい、と思う。

それが、今年もよく頑張りました(この1年、成果があった)、に結びつくかどうかは、ちょっと落差があって、はっきりは言えない。

 

さすがにもう「病気ブログ」からは卒業しようと*1、別ブログに移ったものの、1~2か月に1回更新のような体たらくになっている。

しかし「低位安定」ブログらしく(?)不思議に毎日訪問いただいている。申し訳なく思うところです。

 

 

ξ

二上(ふたがみ)に 隠(かく)らふ月の 惜しけども 妹が手本(たもと)を 離(か)るるこのごろ  (巻一一、二六六八)

 

ーーー(大和の)二上山に月が隠れ見えなくなってしまい何とも寂しい。

つい、あなたの手枕から離れて久しいことを思い出す。

 

朽網山(くたみやま) 夕居(ゆふゐ)る雲の 薄れ行かば われは恋ひむな 君が目を欲(ほ)  (巻一一、二六七四)

 

ーーー(豊後の)夕映えの朽網山にかかる雲が薄れ消えていったなら、あなたが恋しくなって、逢いたくてたまらないでしょう。

 

万葉の(無名の)人々は、人間の心の動きを、「見える」(または「聞こえる」)自然の動きになぞらえて歌っていた。

いわば心情を自然に比喩させた。

月が山に隠れ、夕映えの雲が薄れ消えていく変化に、いたたまれないほど「あなた」を思慕する心情を例えた。

 

この2首は、下の句の

「妹が手本(たもと)を 離(か)るるこのごろ」

「われは恋ひむな 君が目を欲(ほ)り」

を言いたいのだから、山のむこうに隠れてしまう月も、夕映えのなかでちぎれ消えていく雲も、人の心情を修飾する枕詞のようだ。

 

もちろん月が山に隠れ、夕映えの雲が消えていく自然変化だけに、人が恋心を重ねる必然性はないといってよいと思う。

煌々と輝く満月や、もくもくと湧き上がる雲の姿にも、等しく恋を重ねることは、いくらでもあると考えられるからだ。

 

ξ

自然を人間の姿や心情と関係付けた比喩的なもの、つまり自然を人間の比喩になってもらうようになったのはなぜだろう。

これは謎と言えば謎である。

 

ワタシたちの祖先は、人間の姿や心情を、月や雲や山や川や森や動物や木や草や石に移すことはお手の物だったと思える。

当然、人の霊魂も自然に移すことができた。

霊魂が飛び交うこの世界、偉大な山、偉大な川、偉大な森、偉大な動物、偉大な石。

偉大な霊魂は神と呼ばれることもあったろう。

 

人と人、人と自然物が霊的に交流し行き来することが当然の世界に生きていた祖先は、人間を自然物に比喩することになんの違和も無かったと思える。

 

そう思うと、次のような世界が見える。

 

二上山に傾き隠れていく月や、朽網山にかかり薄れ消えていく雲は

<私>の魂を乗せ、風のように<あなた>の場所におもむき<あなた>を揺らそうとしていないか。

<あなた>は<私>の魂がその手に触れようとしていることに気付かないか。

<あなた>は<私>の魂がそばで見つめていることに気付かないか。

 

ξ

さらに同じように想像を巡らせてみる。

 

風の音(と)の 遠き吾妹(わぎも)が 着せし衣 手本(たもと)のくだり 紕(まよ)ひ来にけり (巻一四、三四五三)  

 

ーーー遠くから風の音が聞こえてくる。

見れば、遠い妻が縫ってくれた衣の袖口の縦糸も、ほつれてきているではないか。

 

風の遠く吹く音に故郷に残した妻を思慕する、防人(さきもり)の作とされる歌。

 

このとき

遠く吹く風には<妻>の魂が乗ってはいないか。

風の音は<私>を揺らす<妻>の魂ではないか。

<妻>の魂は旅衣のほつれを繕おうと、ここまで来てはいないか。

 

孤独な防人たちは

(現代ふうに、いかに幻覚だの幻聴だのと言われようが)

一瞬であれ、遠い妻が身近にいる不思議な存在感、その「安堵」、「充足」を伴なう感覚が無ければ作歌の衝動には至らないように強く思える。

それが、ただ別離の悲しみを歌う民謡・歌謡として口誦され拡散していったとしても。*2

 

*1:

yusakum.hatenablog.com

*2:

現代語訳は、すべてブログ主の意訳です。

 

 

《追記》 2023年も(2023年こそ)、皆さまにとって良い年でありますように!