続 ・ たかがリウマチ、じたばたしない。

このブログは「たかがリウマチ、じたばたしない。」の続きです。喰うために生活することも、病気でいることも闘いです。その力を抜くこと、息を抜くことに関心があります。

半分になった世界の外の、もう半分の世界

ξ

20世紀後半に、知識人対大衆という区分が消滅しましたが、その決定的な契機は

「旧世代」が、大学のなかでもてあそんでいたインテリゲンチャだの、プチブルジョアだの、その「特権性」の自己批判だのが、政府、マスコミ、学外の誰もが相手にしなかった言葉遊びに過ぎなかったので

ついに政府によって紛争が鎮圧されても、教授・学生らが共闘して学問の自由や大学自治のために蜂起することなど一切無く、教授・学生それぞれが既得の「特権性」、「階層性」なるものにしがみついたまま雲散霧消してしまった時点だったと思っています。

ワタシはこういう「旧世代」への自分の「偏見」や嫌悪を隠す気はありません。*1

 

知識人が消滅したいま、「専門家」、「プロ」と呼ばれる人々が露出していますが、彼らは舌禍事件をおこすたび非専門家であるアマチュアからの激しい批判でオタオタしてしまうようなレベルでしょう。

つまり、尊敬できる偉大な先導者などどこにも見当たらない物寂しい時代を暮らしているのではないかと思うことになります。 

f:id:yusakum:20210619160218p:plain

 

ξ

何はともあれその思想的発言には耳を澄ましてしまう尊敬すべき知識人の面影を持つ人物を思い浮かべようとすると、ワタシには養老孟司(1937~)くらいしか浮かびません。

 

「今は世界が半分になっちゃった」養老孟司さんに聞く、もう半分の世界のこと

 

都市化するということは自然を排除するということです。脳で考えたものを具体的に形にしたものが都市です。自然はその反対側に位置しています。(『超バカの壁』)

 

言うまでもなく、都市は先立つ人間が作り出したもの、人間は先立つ自然が作り出したもの、しかし都市は自然を包摂することなく(排除して)自立できると考えてきた節があります。

しかし都市をウロウロするのは人間なのだから、つまりそもそも自然のなかから都市は産まれてきたのだから、どこまでも際限なく抽象化・高度化できるはずがないと思われます。

だからどこかの水準で都市化が止まるか、小ポリスに細分化されるのではないかと、ワタシはぼんやり空想しています。

 

(都市に住む人が自然を排除しようとするのは)感覚を通して世界を受け入れないからです。意味を持った情報を通して世界を理解するんですね。だから意味のないもの、分からないものを徹底排除しようとするんですよ。自然に意味なんてないからね。都市の中の公園は、完全に意味を持った人工物です」(『世間とズレちゃうのはしょうがない』)

 

都市工学や緑地学は、都市の不自然を希釈するため、様々な基準の公園緑地を設計したりしてきたが、(はるか昔に学んだ)こういう手法に、やっていていつも、正解にたどり着かない虚妄な感じがしたのは、人工的な意味を持たせてどこかで終わりにする便宜主義、抜本的な感触に到達することを目的にしない機能主義だったからだと思えます。

氏は「自然に(人間が考えて答えの出る)意味なんてない」と言っています。

 

ξ

・・・社会が脳化されていない自然状態で過ごす人は、服を着ないんですよ。自分の身体と自然を同じものと見なしているから。でもそこから独立したとたんに服を着るんですね。服の中は自然だから、それを出すのは野蛮なんです。

たとえば戦前は、裸で労働する人がたくさんいました。危険だとか怪我をするからとかいろんな理由をつけて、戦後それをやめさせたんですね。でも、夏の暑いときに服を着ているほうがよほど危険でしょう。要するにこれもあとづけ、裸は見たくないってことなんです。身体性が抑圧されているんですね。 

 

おお、そのとおりだ。

肉体労働をしていた人々のかつてのモノクロ映像を思い出すと確かに上半身裸だ。

さらにさかのぼって近世の絵図を思い出しても、職人たちは粋な裸だったように思い出す。

そんな昔でなくとも、子ども時代、遊んで大汗かいて、脱いだシャツで腕や背中を拭いて、それをクシャクシャまた着て、当然だったではないか。

今のように、汗を嫌悪し、汗臭さを嫌悪し、体臭を嫌悪する異様な時代では無かった。

 

氏は、もし自分の意識の中の、身体が気に喰わない、自然が気に喰わないという嫌悪感を穏やかに見直すことができれば「半分になってしまった世界」は拡げられる(倍にもどせる)と述べているようです。

 

ξ

氏は、これから人がしたほうが良いのは、他人が作ったものの「情報処理」ではなく、自ら「情報化」すること、だと言っています。 

 

 ・・・僕は「情報化」という言葉をちょっと違う意味で使っています。僕の言う「情報化」は、五感から入ってきたものを情報に変えて人に伝える、ということです。たとえば自分の目で見たものを、文章として表現することなんかそうですね。

昔、丸谷才一の『文章読本』で読んだことがあるんですが、井伏鱒二が、ちゃぶ台で雀が遊んでいる情景を2ページくらいに渡って書いていたんだそうです。でもいま、大人でそこまで書ける人っているでしょうか?

そういうふうに、感覚から入ってくるものを言葉に変える、現物から情報にする。それを僕は「情報化」と呼んでいるんですね。だから一次産業がなくなるのと、「情報化」がなくなるのは、ほとんど同じことなんです。

 

── 五感で自然に触れることがなくなったから、「情報化」もなくなったという。

 

そう。僕がやっている虫取りも、典型的な「情報化」です。虫の標本を見て、名前をつける。名前のついていない新種は、まだ情報化されていないからね。

一方で、今みなさんがやっているのは「情報処理」なんですよ。すでに情報になったものをどう扱うか、ということをしている。

 

── たしかに、触れるのはすべて人の意図や意思が入ったものばかりです。それは「情報化社会」というより「情報処理社会」なんですね。*2

  

ξ

ワタシは自然に、良い自然も悪い自然もあるはずがないと思ってきましたが、氏は自然は「中立」だと言っています。

自然は、人間の考える有意味、有効とは関係なく存在しているのだ、という(当然の)ことを言っているように思います。*3

 

今日みたいに気持ちいい天気の日もあれば、昨日みたいに台風みたいな日もあって、地震、噴火、津波なんかもあるわけでしょう。自然って別にいいもんじゃないんですよ。じゃあどう定義すればいいかというと「中立」なんですね。
今、「自然がいい」と思われているのは、自然じゃないほうに社会が寄りすぎているから。単にバランスの問題です。

 

 ・・・その人が現実をどう捉えているかは、自分がどういうことに時間をとっているかに影響されると思いますよ。脳が浸っている時間が長いものほど現実化するんです。だから、テレビばかり観ている人はテレビが現実になるし、お金ばかり扱っている人はお金が現実になる。そのことばかり考えていると、現実もそうなるんですね。現実が、自分の脳みその大きさまで縮小してしまうんです。

 

── 自分イコール現実になってしまう、ということですか。

 

そうです、そうです。僕もよく患者さんに注意するんですよ。延々と自分のことばかり話して、さっきからあなた自分のことしか言ってないよと。現実の対象が自分でしかない。そうやって縮んじゃうから外へ行けっていうんですよ。そういう人には、「自分以外のものについてもっと話せるように変わっていったらどうですか」と。

 

── 外に出ることによって、現実を広げていく、という。

 

そうそう。感覚は外に向かって開いているんですから。音でも景色でも風でも、勝手に入ってくるんですよ。たとえば海をしばらく見てると、しみじみ思います。なんで波が動いているんだろうとか。これがずっと繰り返されているんだな、と思うとちょっと驚きますね。
だから、自分の外から来るものに、もうちょっと現実感を持たせたほうがいい。脳みそばっかりじゃなくてね。

 

ξ

現実が、自分の脳みその大きさにまで縮小してしまうというのは痛快な言い方です。

人の生物的自然は軽視できない、とんでもないものだとワタシが気付いたのは、(情けないことに)慢性病になってからで

「自分以外のもの」「自分の外から来るもの」に向かって大きく羽ばたいたからではなく、図らずも自分の鬱陶しい身体に向かうことになってしまったからだったのは皮肉でしたが

慢性病者が、自分の身体性に気付くことから世界を拡げていく(心の可動域を拡げていく)のは自然なことではないかと思えます。

 

アナタが自分の脳から足先までメカニカルに身体をいくら語ったところでアナタを語ったことにならないのと同様に

アナタが真夜中の密室のような孤高の心をいくら語ったところで人間であるアナタを語ったことにはならないという、ちょっとした気づきの拡大は*4

日々、薬漬けの自分への嫌悪を増長することもなく、ワタシに不思議な安堵を与えています。

 

 

*1:

yusakum.hatenablog.com

*2:

インタビュアーは土門蘭氏

*3: 

yusakumf.hatenablog.com

 

*4: 

yusakumf.hatenablog.com