これは
『逃げて逃げて逃げまくる方法』 ~ 無構造な情報が降り注ぐ心地よい時代
の続きです。
ξ
もういくつ寝れば、というわけでもありませんが、20世紀のコカ・コーラ “I feel Coke” CM動画の「正月編」「帰省編」へ引き寄せられる親近感を考えているうち
それは、あの当時からすでに、無くなりかけていた(無くなってしまった)安定した共同体へのノスタルジアであったことに気付きました。
1990年頃、すでに懐かしいものとなりかけていた共同体の記憶だから「絵」になったのだと気付きました。*1
https://www.youtube.com/watch?v=W0k2VFPxd14
ξ
「まさかと思っていたことが統計上に現われた。
ひのえうまの迷信がひびいて、ことし上半期の出生数は去年より25%も減った。
県によっては死者数よりも出生数が少ないという、有史以来の“マイナス現象”もある。
この前のひのえうま年、明治39年は前年より5万8千人減っただけだが、ことしは40万人も減る見込み」(東京新聞、1966年9月7日)
・・・
しかし、それにしてもこの「ひのえうま」の突然の復活は、この時期のブームの本質が何であったかを知るうえで暗示的です。
同じころから、人びとは正月の儀式や七五三の習俗を、あたかも新しい流行と同じ気軽さで生活の中にとりもどし始めました。
ことがあれば振り袖を着る女性の姿も年ごとに増えて、新聞にはまたしても、「着付け教室」がブームを迎えたという記事が現れました。
(山崎正和『おんりい・いえすたでぃ’60s』、文春文庫、1985)
これはワタシにとって意外な(歴史的)事実でした。
敗戦後、もう戦争には頼らないとして、誰もが働きに働き、先進欧米諸国に追いつき追いこせ、だけでやってきたと思っていました。
しかし経済的な落ち着きが人々の間に拡がるにつれ、「古い上着よ、さようなら」と、捨てたり毛嫌いしてきたと思えた日本(人)の習俗・伝統に再び関心が向くようになったのはなぜでしょう。
ξ
それは1960年代から、さらに10年も20年も遅れて後追いしたド田舎の暮らしの変化を振り返っても明らかなように思えます。
元旦には、「ヨソイキ」の小ぎれいな子ども服が用意され着るように促されました。
母も割烹着の下は、なんかきれいな服を着ていたような気がしたし、父も朝は和服でした。
昨日の晩、大晦日に年越そばや天ぷらをガヤガヤ食べてから、なんとなく騒がしく、「ゆく年くる年」を観るころまで起きており、寝坊した元旦は、いくらかあらたまった気分でお雑煮を食べることになりました。
元旦か二日か忘れましたが、一家そろって徒歩で行ける距離にある有力者(?)の屋敷に出かけました。
カネモチも貧乏人も関係なく、同じ共同体に住んでいるというだけで集まっていたようです。
オダイジンと呼んでいたその家の玄関には、わが家とは比べものにならない大きな鏡モチが飾られ、上がると奥の神棚には普段みたことがない白い蝋燭が明るく輝いていて、華やかな緊張を感じさせました。
ジーチャン、バーチャンやイトコたち(親戚)も来ていて、新年の挨拶が飛び交いますが、ひょっとしたら幼い子どもの頭の上ではお年玉も飛び交っていたかもしれません。
しかしド田舎で、カネなど無関係に毎日を遊び過ごし、正月に突然欲しいものがあるはずもなく、近所におもちゃ屋のような店があるわけでもなく、たぶん親に召し上げられて後の洋服や運動靴や学用品に化けたのかもしれません。
どうせオトナは飲み食いしたいだけ、母たちは配膳に動員され、父たちは大声で飲んだくれ、ワタシたち子どもは、なぜ(年末)年始だけこんな遊びをするのかわからないカルタ取りやスゴロクをして時間をつぶしました。
オダイジン親族の女性たちがきっと何日もかけて用意しただろうオセチ料理はスゴイもので、ワタシたち子どもでも目を見張りました。
人いきれや思いっきりの暖房のせいもありますが、頬が紅潮するような華やかさと騒がしさのなかで過ごし、その意味をまるで知らない子どもにとっても特別な節目なんだということは、よくわかる伝統行事でした。
やがていつの間にか、わが家にも朱色の屠蘇器が揃えられ、子どもは薬のようなヘンな味のお屠蘇を舐めさせられ、朝からコップ冷や酒だった父の、お屠蘇行事の後は熱燗に変わりました。
また母によってオセチ用の重箱もなんとなく華やかな紋様のものに変わりました。
このように振り返ってみると、人々の感覚と知識を刺激する劇的な変化、その底にあって驚くほど変わらなかった生活のリズム、このふたつの間には、ある種のギャップがあったといえるかもしれません。
・・・
けれども、60年代は、あらゆることが凝縮して行われたとはいえ、所詮、変化と安定が二重の層をなして人間を支配しているのが、人生というものなのです。
思えば、これだけの安定があったからこそ、私たちは、60年代の変化に耐えられたのだということも・・・できるでしょう。
(前掲書)
これは素晴らしい洞察であって、上澄みのように激しく通り過ぎていく変化だけでは、人間は不安と焦燥に駆られるだけで生きていけないのです。
いつでも還ることのできる安定のなかで同時に生きているのです。
ξ
日本で「家族」「家」というとき、単に「夫婦・兄弟姉妹・親子」という同時代的、同空間的なつながりだけを指すわけではありません。
振り袖は万葉の時代までさかのぼります。
折に触れて、「魂(たま)振り」「袖振り」と呼ばれる深い意味を持つ所作を導くものでした。*2
その正絹の振り袖は、仕立てに時間と費用のかかるたいへん貴重なもの、伝統的な花嫁衣装であり「嫁入り」する女性の財産としていつまでも丁寧に取扱われました。
未婚の若い女性が、祖母や母が大切に仕舞っていた振り袖を、試しに着てみようとするとき
彼女は「家族」(イコール)「家」の世代的、歴史的つながりを意識したに違いありません。
祖母以前、そして母と自分、いずれ自分の娘に繋がっていく「家」の歴史、「家」の代々の女系血族の穏やかなつながりが意識されていたはずです。
だからこそ、「ひのえうま」や振り袖ブームのような習俗・伝統に、「新しい流行と同じ気軽さ」で戻っていくことができたといえます。
https://www.youtube.com/watch?v=W0k2VFPxd14
ξ
しかしながら、ある種の華やかさと高揚のなかで、機嫌のよいオトナたちにポンポンと頭を撫でられて過ごした子ども時代の、心地よかった記憶、ワタシの正月の「家」(共同体)は消えていきました。
親が他界して帰るべき田舎が無くなった頃、その安定したワタシの「家」(共同体)の消滅は、決定的になりました。
それは20世紀半ばからの日本資本主義による消費文化の急拡大とパラレルでした。
たとえば着物が欲しければカネで買えばよい、レンタルでもよい、最近はリユースという手もある、親世代も、高価な着物をタンスにこのまま仕舞っておくのは宝の持ち腐れ、意気盛んなリユース市場に出すのもいい、もはや習俗・伝統に関係なく着物は、単に消費文化=消費財のひとつとして楽しめばよい、と言うように。
ワタシのように引越しの多い暮らしのなかで、妻は、微かに防虫剤臭のする着物を移動の荷に分けるたび、自身の親世代の痕跡を残す時代の終わりを感じていたと思います。
現在も20歳代女性を中心に着物ブームだそうです。地元行政が着付け教室の開催を頻繁に宣伝しているので気が付きました。
しかしそれは、彼女らのおしゃれ・ファッションの一部であって、「家族」も「家」(血族、共同体)もまったく関係ないと言えると思います。
(続きます。)