続 ・ たかがリウマチ、じたばたしない。

このブログは「たかがリウマチ、じたばたしない。」の続きです。喰うために生活することも、病気でいることも闘いです。その力を抜くこと、息を抜くことに関心があります。

さらば、心理主義という迷妄

これは

劇的に変化する共同体と、心地よく安定した共同体で、「二重」に生きること  その2/2

の続きです。

 

ξ

資本制社会の劇的な変化に対して、「二重の層」となり得るほどの、晴れがましさと心地よい緊張をもたらす安定がほとんど失われた20世紀

その不安と焦燥を打ち消そうとするかのように、精神医療の世界にカウンセリング・ブームが起こりました。

心を取り扱うこと、心をコントロールすることが自分に対しても他者に対しても「万能感」をもたらす魅力が大きかったようです。*1

 

「心理学化」の海を離れる

 

ξ

自己免疫疾患による闘病生活で一番困ったのは、寝たり起きたり、杖をついたりのまったく自由にならない身体と、果てしなくジタバタしようとするとの不調和、つまりひたすら身体が分離していってしまう収拾のつかない事態でした。

 

UNDER  CONSTRUCTION(工事中)という動的な心

 

制御しがたい心、デパスをやめた【断章1/4】

 

 

そのうち行き着いたのは、人間は、身体が「二重」化された存在である

だけに傾いても身体だけに傾いても、アンバランスで不安や焦燥に苛まれるようになっている

というよりだけ、身体だけというような存在の仕方はそもそもできない

 

もう少し言うと、人間は、意識である存在(ビオス)と、生き物である存在(ゾーエー)が「二重」になっている存在であり

ゾーエーは、生きているという単なる事実(=動物的生)を表し、ビオスは、それぞれの個体・集団の生きる形式、生き方(=人間的生)を指している *2

これらから、人間は、=意識である生身体=生き物である生とが、常に重なり錯綜している存在、と考えてもよいように思え、その時、解決の糸口をつかんだ気になりました。

 

さらに重要なことは

人間は、それぞれ異なる身体からなる固有の空間(殻)を持っている

外界(他者)とは、この固有空間の境界で接している

比喩的には、ちょうど蛙の丸い卵のようにして無数の外界(他者)接触し合い影響を与え合っている

隣接する他空間とは柔らかく親密に接触することもあるし、激突するように破壊的に接触することもある

 

ワタシたち人間は、均質な全体空間(世界)に均等にばら撒かれているわけではない

それぞれの固有空間が無数に集まって世界ができている

だから不均一・不規則であり、よって濃度も異なり歪んだ空間として世界はできている

こう考えてみたとき、自分の身体や外界(他者)が、俄然わかりやすくなったことを覚えています。

 

リウマトイド因子陽性ならば関節リウマチなのか私論 ~ ベイズの定理

 

 

人間は、劇的な変化と、その一方の安定の「二重の層」を生きているもの、という洞察が確からしく思えたのは

人間は、常に身体が入り組んでいる「二重」の存在であり、その相似形にハッとしたからです。

 

ξ

こうした思考の果てに気付いたもっとも重要な点は、人間を動かすものは、思想・信念・信仰といったものであることです。

しかし精神分析の視線、心理分析の視線は、それらを解体してしまいます。

 

思想と精神分析は両立しません。

精神分析は、これもまた、外の現れを内の表現だとは見ない、それをじつは本人も気づかない内の内としての無意識の表現だと考えるからです。

病跡学という学問がありますね。

ゲーテドストエフスキートルストイ夏目漱石、そういう大文豪、またルソーやウィトゲンシュタインといった哲学者をつかまえて、彼らがここでこういったり、こういう行動をしているのは、この時、鬱病気味になっていたからだとか、精神分裂病の発病形態を意味しているとかいう学問です。

この学問にかかっては、思想も信仰も存在しないでしょう。

エス(キリスト)も、一人の狂人として扱われること必定です。 *3

 

 

ξ

この問題に、ワタシはずっと悩まされてきました。

長く病気だからそんなことを考える、脳にいくらか障害があるからそんなことを考える、と。

人は人の心理ばかり、思想・信念・信仰の表明のほうを、まともに聴く耳を持たないのです。

 

この種の心理主義はランダムに拡張して「心の持ち方が悪いから病気になった」、「ネガティブ思考でいるから病気が治らない」、「心の持ち方を変えれば万病は治る」といった、内容の無いサイコビジネスふうの言い草がいくらでも耳に入ってくるようになりました。

 

ワタシは、人間が生きるためにこういう心理主義(=心理分析、心理的対処)は一切無効と「極言」し、全面的に否定するようにしてきました。

 

リウマチ患者の心をもてあそぶな

 

トラウマ型の痛みに決着をつける

 

音楽を432Hzに下げて聴いて、感じたこと

 

 

この世はアナタの思想・信念・信仰によってしか見えるようにはなりませんし、アナタの生き方も人間関係もアナタの思想・信念・信仰によってしか変わりません。

 

心理主義では、ポジティブ思考がまだまだ足りない、もっともっと前向きに考えなくては・・・

こういう悪夢のような自己嫌悪の循環に苛まれ続けるだけです。

心に負担をかけること、心の持ち方論からはもう自由になりましょう。

 

ξ

アナタはアナタの意思にかかわらず、接触する他者(外界)から、激しく愛されたり、激しく傷つけられたりすることが、いくらでも生起する時間・空間のなかを過ごしています。

一方で、激しく愛したり、激しく傷つけたりすることが等価に起こりますから、間違いなくアナタの(意識である生)身体(生き物である生)の感性に豊かな膨らみを与えていく、とワタシには信じられます。

ロボトミーでも受けたような無表情・無感動な安定は、決して「正常」でも「健康」でもありませんから。

 

 

*1:

参考:斎藤環心理学化する社会』、河出文庫、2009

*2:

参考:加藤典洋『増補改訂 日本の無思想』、平凡社、2015

*3:

脚注書『増補改訂 日本の無思想』。著者は、精神分析の見方も有効であることを否定はしていない。