続 ・ たかがリウマチ、じたばたしない。

このブログは「たかがリウマチ、じたばたしない。」の続きです。喰うために生活することも、病気でいることも闘いです。その力を抜くこと、息を抜くことに関心があります。

「人間は負けるようにできている。」

ξ  

黒人男性が真っ昼間、白人警官に拘束され殺害された事件を発端に、全米各都市で巻き起こった抗議活動Black Lives Matter のさなかにも、いくつも同様の事件が続いた。

これが図らずも大統領選のトランプとバイデンの明確な主張の違いにもなっている。

トランプは「法と秩序」を守っているとして警察の対応を高く評価し、この抗議活動の中で一般白人による発砲殺人が起こっても問題視することもなく、暴力的な抗議活動のほうを断固取り締まるとしている。

バイデン側は、有色人種を差別し続ける警察側の対応を改善する必要があるとしてトランプ側は分断を助長しているだけだと批判している。

ニュースを見ている限り、平和的な抗議活動か否かという実態に関係なく、警察や州兵らによって暴力的に鎮圧されているようにみえる。

つまり抗議活動をしているのは、サヨク的な暴力集団であり、これこそアメリカを滅ぼすバイデン=民主党の本性であると言いたげである。

トランプ側は、何より優先して白人票(特にwhite , non-college)を押さえておきたいと思っているようにみえるし、バイデン側は有色人種票に接戦を制す期待をかけているのか、誰もが投票に行くよう、繰り返し演説していた(有色人種の投票率は低い)

 

アメリカ人の考え方一般にはまったく不案内だが、過去の投票率が50%台であることを見れば、こういう争いにシラケている人々も相当いるのでないか。

そういうとき自分の行動に適切な意義を見出すには、どうしても現実を超越した価値を持ち出すしかないようにみえる。

 

8月23日にも起こってしまった警官の銃乱射による黒人男性被害者の老いた母親の言葉がABCニュースで感動的にリポートされていた。

 

私の褐色の肌が美しいのは、もうおわかりでしょう。

あなたの手を見てください。

それがどんな色でも美しいのです。

あるがままの自分を憎むなんてとんでもありません。

私たちは人間です。

が創った木や花や魚や馬や草や岩は一種類ではありません。

自分に似た人だけを造ってほしいとに頼むなどとんでもないことです。

白人だけに言っているのではありません。

白人、黒人、日本人、中国人、赤い肌の人、褐色の肌の人、全ての人に言っているのです。

ほかの人より優れている人などいません。

唯一の至高の存在はなのです。

私たちの国が癒されるように祈りを始めましょう。

 

ξ 

詳細を覚えていないので孫引きになるが、古い小説、ヘミングウェイ老人と海』は、老いた漁師が不漁の日々の末、巨大なカジキをとらえ舟の横に括りつけ帰途に就くが、アオザメの群れに襲われ、港に着いたときは、カジキは骨だけになってしまったという物語である。

 

この小説は

「しかし人間は負けるようにはできていない。打ちのめされても負けたりはしない。」

(But man is not made for defeat.  A man can be destroyed but not defeated.)

という老人の言葉で人々に記憶されているそうである。

 

しかし、こういう納得の仕方、心の安堵のさせ方も、背景にの姿がないと、負け惜しみのようでしっくりこないところがある。

世の中には、打ちひしがれるしかない苦難に出会うことは確かにある。しかしは自らが創ったこの世界で、誰が勝った、誰が負けたなんて判定したり決めつけたりするわけがない。の力を信じて立ち上がった者を祝福するはずだ。そう、たとえ打ちのめされても  Yes, I Can ! こその意思に従順な美しさだ、と。

 

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ξ  

しかしを想定もできず、人は勝つこともあれば力足りず負けることもあると思っている者はどうすればよいのか。

 

老人の闘いを、カジキを捕らえる「最後まで勝つための闘い、決して負けるとは考えない」相と

アオザメと格闘する「最後まで負け続ける闘い、しかし打ちのめされることはない」相と

2つの様相のつながりとして捉えてみると次のように言うことができるという。

 

「人間は負けるようにできている。しかし負けても、打ちのめされたりはしない。」

そう、戦いはつねに二つの様相をもつ。

一つは、上り坂での戦い、もう一つは、下り坂での戦い、前者は、勝つことを最後までやりとげる戦いであり、後者は、負けることを最後までやりとげる戦いである。

 

加藤典洋氏/文芸評論家、『敗者の想像力』、集英社、2017)

  

相手が他人でも、社会(会社組織も)でも、思想でも、病気でも同じだ。

例えば身近な病気で考えてみよう。

ある水準まで、上り坂では、どんな方法でもどんな理屈でも立てて治療の道筋を見つけ回復・再生を目指す。

多くの動揺と微かな静謐のあいだを行ったり来たりの日々だ。

しかし、「寛解」と呼ばれることもある不安定なある高原期が訪れることがある。

停滞してこれ以上は行き詰る時期ともいえる。*1

ここからは下り坂の闘いだ。

じわじわ負け続けるかもしれないが、負けることを最後までやりとげる闘いだ。

悪化にも回復にも、付け加わってくる新たな疾患にもヒトゴトのように淡々としていられる。

ワタシは別の人間を生きている。

もう打ちのめされたりはしない。

下り坂の闘いでは、負けても自分の「正義」が信じられるようになるので、他人からの声に動揺することもない。

というより他人の評価を求めない。そうした「焦燥」に費やす時間が惜しくなる。

 

世の中には、最初から形勢の悪いことはたくさんある。

しかし闘わないわけにはいかない。

闘いとは、いまの忍耐から新しい忍耐へ移ることだが、そこには解放があると信じたいからだ。

このとき、上り坂の闘い、下り坂の闘い、つねに共にあるという2つの様相

ワタシに闘う勇気を強く与えてくれる。*2