続 ・ たかがリウマチ、じたばたしない。

このブログは「たかがリウマチ、じたばたしない。」の続きです。喰うために生活することも、病気でいることも闘いです。その力を抜くこと、息を抜くことに関心があります。

イジメと転校の記憶 ~ 逃げるが勝ち!

ξ

逃げるが勝ち、とは当然、兵法のひとつである。

ワタシにとって「逃亡」とは重要な選択肢である。

(ささやかな個人投資家にとっては当たり前のことだろう。)

 

冬になって、母の命日が近づくと思いだすことがある。

今は昔、中学生になりたての頃、当時「イジメ」という言葉は一般的ではなかったが、ワタシは今で言う「イジメ」にあっていたらしい。

それはケンカのようなアッケラカンとした肉体的激突ではなく(それなら簡単には負けない)、クラスのなかで何かにつけ仲間外れにするという陰湿なやり口だ。

原因は当時の自分には、幼すぎて(?)よくわからない。

ワタシがオアイソ(=同調性、忖度)に長けていない変わりものだったから? 

要は、メンゴクナイということか?

 

しかし3年間も、こんな中学校に通学し続けることを考えたらお先マックラ、絶望した。

もし通い続けたなら、最悪の事態は無いにしても、いわゆる不登校にはなっていただろう。

 

母親に、やめたい、転校したいと訴えた。

まず、そんなことでどうする、学校に行け、とは全く言われなかった。

また、今ふうに、親が学校の校長やら担任に仲間外れを止めるように談判に行くことも全く無かった。

 

ワタシは1年生の途中で転校したのだ。

学校区域以外に転校したのだから、昔とはいえすんなりとはいかなかったろう。

しかし親がどういう具体的手続きを踏んだか知らない。

だれかのツテで「有力者」に頼めたのかも知れない。

詳しいことは子どもは知らされない、とにかく転校したのだ。

 

新しい中学校では、前ほど教師も生徒も陰険ではなかった。

きっとワタシが急に転校した経緯は学校として調べ切っていただろうが、ワタシにそれをにおわせることは無かった。

また生徒たちは不思議なことにワタシを仲間外れにすることも無かった。

あぁ、学校によって空気は違うのだ、ということをワタシは知った。

 

自分も教師に対しても生徒に対しても、いささか強くなっていた。つまり簡単にはくじけなくなっていた。

 

親は学校に行かないワタシを責めることもなく、騒いで学校を責めることもなく、逃げるが勝ち、ワタシをサッサと転校させた。

親は戦争中の子どもだったから無学だが、このすばやい判断には今でも感謝している。

ワタシはその中学校からごくフツーに高校に進学した。

おまけに思春期らしい友情とか恋愛の経験もした。

ワタシは二つ目の中学校には、教師や同級生にときめく思い出はあっても忘れたい記憶はない。

振り返ればそこそこ楽しかった。

 

 

ξ

「学校から逃げても根本的解決にはならない」だって?

何をもって「根本的解決」というのか。

モノゴトをきちんと始末したことの無い、知ったふうな傍観者(コメンテーター)に、とやかく言われたくない。

 

登校しない生徒に対し、仮に、知らぬ存ぜぬを決め込む学校や同級生が非を認め謝罪したとしても元には戻らないのである。

泥沼の3年間になるだろう。

泥沼の3年間の「惧れ」をわざわざ子どもに身構えさせる必要はない。

逃げるが勝ち、学校も職場も同じである。*1

 

ξ

❶ 依存先の極端な少なさは暴力を生む、したがって加害者になり得るし、障害者は被害者になり得る、だから依存先を広く持つことが大切だ。

 

❷ 強者は豊富な依存先にふだん自覚できないほど恵まれているが、弱者に依存先は限られている、いくらでも依存先があるのが強者、無いのが弱者といえる。

 

依存先の考え方ついて、上の❶、❷は真実だと思っている。*2

最近、この依存先を、身体と心の「逃亡先」と言い換えても、たいへんしっくりくると感じられる。