ξ
記憶では、中学生の頃は少年や少女がもっとも劇的に変化していく時期である。
女子は、身体的にまだ両性といった印象がある。
少女のなかに、まだ少年が居る。
女子に卓球やテニスを挑んでも、強い球筋にボロ負けすることがある。
バスケットの女子チームと、遊び半分、中途半端に闘うと男子はあっさりやられてしまうことがある。
20メートルくらいのダッシュの練習でも同じだ。
そのスピードや体力差に最初に音を上げて転げてしまうのは、なめてかかった男子だったりする。
男子は変声期で、キーキー高い声でかすれたり、声が裏返ってしまったり、どこか幼稚で冴えない。
女子は成長が早いので、何となく落ち着いていて、だから授業もよく聴いていて、騒がしいだけの男子よりずっと成績がよかったりする。
運動ですら、さっきの話のように、中途半端な男子では太刀打ちできないことがある。
なにもかも同い年の女子に劣っているような気分になる。
女子のほうも同い年の男子を見下しているようにみえる。
少女が日に焼けた少年を併せ持ったこの頃、女子は最強であるように見える。
ξ
女子のちょっとした動作のとき
その乳房の膨らみや
いつのまにか少年から遠ざかっていく身体を眼にしてしまう。
眼にするというより、ワタシの全身が一瞬おののくというようなものだ。
ふだん、あどけない話をぞんざいな口調でやりとりしていた、すぐそばの同級生が
何か別のイキモノに変成しているようにみえる。
生まれてこの方、長い間
男子・女子という区分が便宜的なものにしか思えなかったのに
女子は、自分とは別のイキモノに変成するものだとはっきり自覚するようになる。
ξ
このとき、どういうわけか
大事にしなくちゃ!
という思いが急にやってくるのを感じていた。
その女子を好きなことに気付いたとき
(思いの根源は人間の生物的自然だが)
かつて自身が獲得したに違いない感情が呼び出されて
性的な高揚や喜びがないまぜになった初めてのプロセスに大きくとまどってしまうのは
圧倒的に人間的なことなのではないか。
生物的自然の幸福に過ぎないものを
息が詰るような心的なプロセスによって、際限なく増幅させようとするのは
人間が人間たる所以ではないか。
人間に心的なプロセスが備えられているのは、幸福をひたすら増幅するためだ!
と言ってみたくなるほどである。*1
ξ
こういう親愛の情はどこからやってくるのか。
それは家族共同体で経験した(あるいは想像した)親愛の感情からやってきている。
人間は、自分が経験した感情以外に衝撃の意味を見出すことはできない。
だから強い衝撃があっても、「非意味」なもの、意味がわからないものとして通り抜けることがある。
痛みや後遺障害を残したとしても、だ。
人間の多くの豊かな感情は、どうしても幼児期から(とりわけ家族共同体のなかで)養われると言わざるを得ない。
ξ
性的成長の初期に
男子が特定の女子からの好意を確信できる場合とは
その女子が傾ける無条件の親愛の「まなざし」を確信できたときである。
いうまでもなく、これは母から幼子へ注がれる感情のイメージである。
もうひとつ確信できる場合とは
その男子にしがみつき浴びせる、無条件の信頼の「まなざし」を確信できたときである。
これは、幼子から親や年上の兄弟に注がれる感情のイメージである。
なんの打算もない男子・女子の最初の惹かれ合いは、家族共同体の感情の呼び出し・模倣といってよいものである。
これらは家族共同体の記憶に引き寄せ想像可能になった親愛の情である。
ξ
この感情は、さらに成長して高校生になったときに、カタチとして日常化していたことを思い出す。
(男女共学校での話だが)文化祭や体育祭の終了日は、クラスの打ち上げがあって帰りは遅く暗くなる。
どのクラスにも一人くらいは居る仕切屋は、打ち上げのエンディングが近づくと、どの女子をどの男子が送るのか考え出す。
仕切屋は、各生徒の家の方角ばかりかクラスの中の淡い相関図まで頭に入っているので
A子はX夫が担当
B子はY夫が担当
C子はZ夫が担当
といった具合に振り分ける。
このとき家の方角が全く異なる男子W夫が、A子を送りたいとする。
しかしA子から、アンタには送ってもらいたくない
という決定打を喰らわないよう、たいていは、ブツブツ言うくらいで仕切屋の発表に従い、収まるところに収まるようになっていた。
これは
大事にしなくちゃ!
という感情が
なぜ男子が女子を送るのかとあらためて問うてみると
何だかよくわからない慣習にまで日常化、形骸化したものだったといえる。
ξ
逆向きに考えると、大事にしなくちゃ! というような当事者間の穏やかな親愛の情は、(擬似的であれ)家族共同体形成の始まりと言える。
未開の時代は、観察される哺乳動物の多くのように、血縁的共同体までの同類意識、親愛の情が主体で、それ以外は同じ人間であれ縄張りに侵入する敵でしかなかったと思われるが
どういうわけか自己(愛)否定の能力と、広汎な普遍愛の能力を持つようになってしまった。
「世界に1人でも不幸な人がいる限り、私の幸福はない」というような極端な倫理すら可能にしてしまった。
(ハラリによればフィクションの創造こそホモサピエンスの決定的能力だという。)
この自己否定(行動に移せば自己犠牲)の能力は、非常に人間的な能力に思える。
その起源は、(相手を)大事にしなくちゃ! という性的な親愛の感情から生まれた自己否定性なのか
フィクション創造に伴って必ず起こる自己超越が、自己否定性を持ってしまうのか
は、よくわからない。
未開の時代には戻れない以上、生物的な身体と、普遍愛と言うフィクションまで舞い上がる心の乖離の問題はとても悩ましく、また興味深く思える。*2