これは
の続きです。
資本主義と市民主義が発展していく脈絡のなかで
非人間的な言説が溢れています。
それは支配国家群の覇権とその移動ばかりを言葉にしているからです。
国際政治学者になったおつもりですか ?
英・米からロシア(旧ソ連)、中国に覇権が移動するとして、それがアナタの「幸福」にどういう関係があるのでしょうか。
優雅な傍観者が、大河ドラマのようなフィクションを「鑑賞」しているのとどこが違うのでしょうか。
旧い政治国家の、支配国家群の覇権移動の地図など、アナタやワタシの「幸福」にどう関係があるのでしょうか。
後進国特有の、弾圧・粛清による専制独裁の、時代遅れの帝国主義・民族主義のどこに救いがあるのか。
20世紀の旧ソ連や中国による「社会主義革命がすべて、おぞましい抑圧的な管理社会を実現してしまったこと」*1 の痕(あと)に、ようやく開かれた時代が現在です。
もはやロシア(旧ソ連)や中国の前で、卑屈になったり追随したり属国になったりする選択肢は無いのです。
となれば、アメリカに対しては卑屈・追随・属国のままで良いのかと、ジメジメしたリベラルはきっと云い出すでしょうが、ここでは相手にしないことにします。
現在の日本リベラルは、とにかく保守政権を打倒するためなら中国化、ロシア化すべきである、中国・ロシアと手を組み資金援助を得て、どんな政治工作をしてでも倒す、というほどの度胸はありません。
だから最初から敗北主義のたわごと、常にジメジメ愚痴るしかないのです。*2
冷戦後、国際緊張が縮小した結果、潜在していた経済的格差や人種的差別が表面化するようになったものの
こうして資本主義と市民主義が発展していく脈絡のなかでしか「幸福」な未来はあり得ないのは明らかです。
20世紀までの帝国主義や民族主義(日本で言えば天皇制ファシズム)、その政治インフラであった社会主義に再び憧れてみたり、その管理・抑圧社会に戻る時代錯誤の選択肢はまったくないといえます。*3
「身体という自然」を「心理という人工」物(ぶつ)に加工した近代
養老孟司氏は、明治以降の近代文学の発展を「身体という自然」が「心理という人工」物(ぶつ)に加工されたプロセスとしてみているようです。(前回引用書)
ちょうど漱石の代表作が、身体ではなく『こころ』であったように。
それは「広い文脈では、脳化社会による自然性の抑圧と呼んでいい。」*4
これを私は、「身体の喪失」と表現する。あるいは、脳化と表現する。
身体が別に存在しないわけではない。ただそれは、日常社会から隔離され、異界に押し込められる。
死体のようなものは、人間の見るべきものではない。そういうものを見るから、医者が残酷になる。
そうした言い分が、著名人の発言として、いまでは堂々と公表される。差別問題にあれだけ敏感なはずの人たちが、それに一言も注釈することがない。
ξ
ウクライナ戦争の動画・画像に繰り返し出てくる散らばった物(ぶつ)である身体はどう考えたらよいのでしょうか。
正義・大義という心理(主義)なるものが、人間自体を引き裂き、その身体を消去してしまうのは、ただの欺瞞ではなかったか。
人間から、顔がつぶれ、腕がちぎれ、足が吹き飛び、その死体からはいずれ腐臭のする身体がすっかり消去され
まるで戦争の大義やら正義やら精神やらの心理(主義)こそ人間であるかのように、近代から現代まで、センセーショナルに偽装されてこなかったか。
そもそも日本では、人間は、心理(主義)ではなく身体によってイノチを愛しみ、イノチにけじめをつける無常の民間思想を持っていました。
たとえば芥川龍之介(1892~1927)が衝撃を受け、多数の傑作短編の元型となった、中世「今昔物語」(の部分)は次のようです。
女の美麗なりしも形も衰え持行く。定基(さだもと)これを見るに、悲しびの心たとえむ方無し。しかるに女、ついに病重くなりて死ぬ。その後定基(さだもと)悲しび心にたえずして、久しく葬送すること無くして、抱いてふしたりけるに、日ごろを経るに口を吸いけるに、女の口よりあやしき臰(くさ)き香の出来たりけるに、うとむ心出来て泣く泣く葬してけり。(一部現代平仮名に変更)
自然は人間の従順なシモベであるというような思想は微塵もありません。
自然のその容赦のない災厄も、あらゆるモノ(身体)の誕生も、その日常も、その死も、巨大な自然のうちにある。
巨大な自然は人間のちっぽけな喜怒哀楽(心理)のうえを、ただ、大きく通り過ぎていく。
(3/4に続きます)