これは
「東京ラブストーリー(1991版)」 から 「婚姻届に判を捺しただけですが」、猫は撫でられ抱きしめられるような恋 その1/2
の続きです。
ξ 《話の後半》
無垢が保証され政治的フィクションなど紛れ込まない、郷愁(記憶)として現在を癒すことができる心の逃がしどころを、もはや確保することができない。
逆に言えば、地縁血縁から外され浮遊したら、何が現在を癒すことになるのだろう。
資本主義的な消費文化以外、なにも無いと言えないか。
逃がしどころが無ければ、たいていは被虐的、自傷的、自己憐憫的に振舞い、その自責感情に囚われるか(自分には何か障害があるのではないか、と考えるほど)
その反面に過ぎない、ジッとしていられない攻撃性と他傷性に突出するか、に分かれていくようにみえる。*1
ξ
『婚姻届に判を捺しただけですが』の主人公(夫、坂口健太郎)も同様だが、幸いにも自己の障害性に対する自責感情は薄く、個性として壁を立てる生き方が素直に選ばれている。*2
だからヒロイン(妻、清野菜名)と、夫(坂口)との恋愛の成就を妨げるものは、かつてリカ(鈴木保奈美)が歯がゆく悩んだ「外側」にある壁ではなく
「コミュ障ドラマ」と呼ばれた『逃げ恥』(2016)以来すっかりお馴染みのコミュ障という「内側」の壁になっている。
要は、社会や時代への感度をいくらか鈍くしてやり過ごしていく、現在的なありふれたスタイルが壁になっている。
ξ
もちろん、社会規範は容赦なく自分(坂口)に違和をもたらしている。
しかし自分(坂口)は社会規範からはじかれない程度に違和を受容し淡々と暮らしたいと思っている。
しかし人間社会の通念に馴染まない、頑な壁が、自分(坂口)の恋愛を妨げていることも自覚はしている。
この結果、七面倒くさい、滑稽なやりとりが繰り返される。
小賢しい駆け引きが、コミック的に積み重ねられる。
そこに視聴者の関心が向かうようにしている。
これは(ワタシの好きな)漫才でいうボケそのものに見える。
こういう落とし方で、エッ?というような笑いやツッコミを取るようになっている。
自らのボケ(つまり)感度をいくらか鈍くした振舞いによって、心を落ち着かせ
「考え込むような難題など世界のどこにもないのだ!」
というように飼い猫は撫でられ抱きしめられる。
ξ
こうして内閉的に自己に円環する場所で生きていくこと
みんなそうしているようにみえるし、とやかく言われる筋合いはない、と思える。
社会が悪い、時代が悪いと、自身の不幸を「外側」のせいにしても、何も解決しない、もう考えるだけ無駄、という現実的なしかし自傷的な思考や選択が蔓延しているようにみえる。
それが意に沿わない他者への寛容を欠いてしまえば、憎悪と攻撃・他傷を伴なう。
それにしても次のCM動画のように、内閉的に落ち着こうとして消費される感性は、連帯性などちっとも見つけられず、孤独にひたすら拍車をかけているようにみえる。
ワタシには好ましいとは思えない。
私にもあるよ。
それぞれの街に、好きな場所、好きな人、好きな時間が。
きっとその答えは、お互いに違っていて、だからこそ発見がある。
(東京メトロ【CM】Find my Tokyo - YouTube)
ξ
このドラマの主人公(坂口)が、大手広告会社に勤務する高給の正社員(偽装妻にあっさり500万円貸せる!)であることは重要である。
生活苦とも戦火とも無縁な、より平穏な場所で
端的には、「生活力」とか「将来性」などほとんど問われることも無い、より優位な場所で
感度をいくらか鈍くした立居振舞が
ただの臆病でもなく、ただのバカでもなく
「ピュア(純粋)」に感じられる、すべすべした格好の良い価値に感じられるようにドラマは進む。
ξ
こういう都市賃労働者上位層への抑圧は、2つあるように思える。
ひとつは、今の時代・社会に最適な、見事な効率性を発揮するアンドロイドでありたいという指向である。
際限のないスキルアップとかキャリアアップとかが頭を離れない。
このとき呼吸、摂食、排泄を基本とする生物的自然は不整脈のように鬱陶しく、また生物的自然を根源とする恋愛感情も、もちろん鬱陶しいものに過ぎない、そうしたものは(ちょうどこのドラマのように)亡きものにしてしまいたい。
恋愛など単に空想、架空なものと考えたい強力なアンドロイド指向に傾く。
これは人間の生物的自然の抑圧である。
もうひとつは、言い方を大上段に変えただけかもしれないが、現在的な潮流ともいえる生命衝動(性衝動を含む)自体の弱体化、虚弱化である。
非生命衝動的な振舞いが、ギラギラした生命力や男性性・女性性に代わって、静寂、無色透明な中性的な美や快を持つようになっている。
『東京ラブストーリー(1991版)』のように、生命衝動(性衝動)を、男性的に、女性的に、率直に開花させた方法とは大きく異なっている。
これは人間の生命衝動そのものの抑圧である。
ξ
『婚姻届に判を捺しただけですが』は、そういう生物的自然、生命衝動の抑圧が危うくなっている、持ちこたえられない、アララ!というように破たんしていくドラマになっている。
しっかりハグをしても(「友情」のハグだって?)、ベッドで一緒に寝ていても、中性的に抑圧される。
それは主人公夫婦二人が異常なのではなく、汗も体臭も遠ざけていく、金属的な鈍い光を放つ中性的なすべすべした皮膚(アンドロイド)を持つ社会規範のコミカルな浸透のせいである。
そうした抑圧が破たんしていく姿を、ヒロイン(清野)の祖母が穏やかにフォローしている。
会えなくなってしまったら
もう一度、は
もう二度と、になっちゃうからね。
後悔しないようにしなくちゃだめよ。
結婚とは何か、経済的自立とは何かなどと考える、社会的抑圧が生み出し脳に強制しただけの夾雑物などどうでもよく
新たな何かが、ごく控えめに芽生えてしまう危うい道筋に、陽気でソワソワした魅力が感じられるようになっている。*3
結局のところ、バーチャンの老成した知恵が決めゼリフになっている。