続 ・ たかがリウマチ、じたばたしない。

このブログは「たかがリウマチ、じたばたしない。」の続きです。喰うために生活することも、病気でいることも闘いです。その力を抜くこと、息を抜くことに関心があります。

「幸福」とはどのようなものか、知ってみる  その1/4

これは

「コカ・コーラ “I feel Coke” 」 ファンタジー

の続きです。

 

 

身体を喪失した<新しい>江戸時代、1990年代

 

免疫学者だった多田富雄(1934~2010)は、養老孟司氏の身体論について次のように興味深い解説をしています。

 

養老さんによれば、身体が急速に喪失したのは江戸時代以降のことである。

武士による支配体制が成立し身分制が確立されると、人間は生き物としての一個人ではなくなった。

一つの体制内での社会的「要素」としての存在であることを強要された。

「身体」の赴くままに行動することのできない、記号的な存在になってしまった。

江戸時代の人間を保証したのは、「型」であった。

実体ではなくて「型」としての存在。

「型」を持っているからこそ、社会的な役割を持っていると「見なさ」れる。

「型」のない実体である「身体」は当然阻害される。

特定の職業、身分、行動様式という規範を持っていなければ、社会の構成員とは「見なさ」れない。

その規範が、やがて道徳となり倫理観となった。

江戸時代の人間の「個」は、実体というよりは、こうした「型」と「見なし」によって規定されたのだ。

個人の身体的イメージはなかったのだ。*1

(番号はブログ主が仮に振ったもの)

 

ξ

ワタシはこれが、自分の生活史の規模でも成り立っているのではないかと思い付き、試してみたくなりました。

そこで、次のように上書きしてみました。

 

身体が急速に喪失したのは1990年代半ば以降のことである。

高度な金融資本主義と情報資本主義の勝者たちによるグローバルな支配体制が確立し、その結果、階層の固定化が進行すると、人間は生き物としての一個人ではなくなった。

一つの体制内での社会的「要素」としての存在であることを強要された。

「身体」の赴くままに行動することのできない、記号的な存在になってしまった。

1990年半ば以降の人間を保証したのは、アンドロイドのような記号的抽象性という「要素」であった。

実体ではなくて記号的抽象性(アンドロイド)としての存在。

記号的抽象性を持っているからこそ、社会的な役割を持っていると「見なさ」れる。

抽象できない実体である「身体」は当然阻害される。

特定の職業、身分、行動様式という規範を持っていなければ、社会の構成員とは「見なさ」れない。

その規範が、やがて道徳となり倫理観となった。

1990年半ば以降の人間の「個」は、実体というよりは、こうした記号的抽象性と「見なし」によって規定されたのだ。

個人の身体的イメージはなかったのだ。

 

ξ

ワタシにはこれは、たいへんしっくりきます。

バブル崩壊後の1990年代から日本は劇的な社会変化に見舞われました。*2

事例をピックアップしてみます。

 

厚生労働省調査。このように中央値<平均値である歪んだ分布は、低所得層が多いことを示す。

 

ξ

1990年代以降の社会的抑圧のキツさは、たとえば「グローバルスタンダードによるガバナンス強化」だの、「目標設定によるノルマ管理徹底と評価の可視化・厳格化」だの、自分の「身体」の赴くままに行動することと無関係な存在であることを強要され続けたから、と考えることができます。*3

現象的には次のような変化が起こりました。

 

● 企業社会は資本主義的な効率化が徹底され、職場の人的つながりは乾きスカスカになった。

● 親睦旅行観楓会などと呼ばれる団体旅行)や、文化祭(企業内クラブ活動の発表会)や、体育祭(家族ぐるみの運動会)などの地域的・家族的な親密な習慣は吹き飛んだ。

● 一方、従業員は、サラッと資本主義的に乾いた企業社会、「記号的抽象性」だけが評価される変化に、かえって馴染む人も少なくなかった。

● それは雇用側から、「記号的抽象性」は<能力主義>への転換とも喧伝され、従業員は、その資本主義的有用部分のみが評価される<自己細分化>を受容したからである。

● また高度な消費資本主義と情報資本主義は、個人の生涯の価値、あるべき姿を、所属共同体の価値から切り離すことを可能にしたからである。

● たとえばアニメやゲームによる人的つながりを、誰も企業社会のなかに求めようと思わなかったし、急速に進んだIT社会では、その必要もまったく無かった。

● 本来、生き物として統一されていたはずの個人は、外的環境=「セカイ」に対し、常に自己をバラバラに切り分けて意識し活動する(時には匿名で)ほかなくなった。

● ひとことで言えば、生きることの、どこか不統一なわけのわからない孤独(感)が絶えず湧き上がり、それに苛まれ、現在に至っている。

 

(2/4に続きます)