続 ・ たかがリウマチ、じたばたしない。

このブログは「たかがリウマチ、じたばたしない。」の続きです。喰うために生活することも、病気でいることも闘いです。その力を抜くこと、息を抜くことに関心があります。

グールドの「2声と3声のインヴェンション」

 

真夜中の「2声と3声のインヴェンション」

 

グレン・グールドのバッハのピアノ曲は、自分の息遣い(いや歌声か)に合わせてテンポを自在に動かしてしまうところがあり目(いや耳か)が離せない。

それはひどく孤独だが、人を拒絶する偏屈な孤高さはまったくない。

ピアノの鳴っている部屋のドアはいつも開放されているように聴こえる。

 

ワタシは「ゴールベルク変奏曲」をグールドで初めて聴いたのだが、いつの間にかそれが演奏の規準になり

ほかの奏者の演奏が耳に入ると、グールドの盤を聴き直さないと落ち着かなくなるような経験をしてきた。

こうして聴こえてくる「ゴールドベルク」は、バッハなのかグールドなのか区別することも不要に思うようになった。

 

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ξ

最近、夜、布団のなかでiPodから聴いているのは「2声と3声のインヴェンション」(1964年録音)である。

睡眠導入剤の代わりだ。

ハ長調からヘ短調まで15の調性の2声と3声それぞれの小品の組曲(インヴェンション)で合計30曲になる。

グールドの盤で40秒から4分17秒の作品からなり全体で約50分(平均1分40秒/曲)である。

グールド特有の、木を叩くような、不思議な木質の音に慣れると、ここでも、ほかの演奏をあえて求める気にはならなくなる。

 

グールド自身がこの曲にふさわしい音色のための、楽器の「手術」について語っている。

 

本盤に登場する楽器は第二次世界大戦以前のスタインウェイで、その名もCD318。・・・・・

このピアノのアクションに関して、かなり徹底的な実験を始めることができました。つまり、バロック音楽用の楽器の設計です。現代のピアノの申し分ない資質に、ハープシコードのもつ透明感や触感の慶びといったものを追加可能な楽器を考えたのです。・・・・・

この方向で生来の癖が抜けるならば、318君は、即時性と透明感のある響きを発することにおそらく同意してくれます。そうすればバッハに不可欠なノンレガートの特性が見事に実現されるはずです。・・・・・

CDライナーノート「ピアノについて一言」(グレン・グールド 

 

 

憑依の空間 

 

ワタシたちの心のありようについて、一方の極は秩序にも身体にもベタベタに張り付いているような極小の心の空間が考えられる。

これは脳や中枢神経系に完全には依存しない反射まで心の動きに含めてみれば、植物以外の原生的な生物から近縁の哺乳動物に至るまで、人間との深い生物的関連を考えることができる。

 

一方の極に、徹底した非秩序・非身体の極大の心の空間が考えられる。

想像しうる極限は宇宙の歴史そのものであるから、自己の心が全宇宙の時空間と同一にまで拡張された大きさが心の極限になるだろう。

 

ところで人間であるワタシたちの心が秩序や身体との違和を思考する以上、秩序や身体にベタベタに張り付いている心の空間からは必ず離れ浮き上がっている。

一方、徹底した非秩序・非身体の、心の空間(それは狂気の空間と言えるかもしれない)にたたずむこともまず無い。それは人間の生物的自然や規範による揺り戻しがあるからである。

 

ξ

こうした2つの極の途上には、憑依の空間があるはずだと思われる。*1

グールドの「2声と3声のインヴェンション」を聴いているといつもそんな感覚を味わう。

それはグールドにバッハやその作品が憑依したのか

反対にバッハやその作品にグールドが憑依したのか

それはどちらでもよいのである。

心が非秩序・非身体に向かうとき、心も規範も物質(身体)も区別されようがない空間があるはずだから、それでかまわないのである。

そしてワタシといえば

グールドを媒体にバッハや作品がワタシに憑依したともいえるし、グールドもバッハも作品もすべてがワタシに憑依したと言っても構わない空間に居ることになる。

 

(多かれ少なかれ意識が変性状態にある)憑依の空間は、日常の空間と、非秩序・非身体の究極の心の空間の途上にある。

グールドはワタシたちを容易に憑依の空間にいざなうし、ワタシたちは必ず憑依の空間の残照を保持したまま日常に戻ってくる。

アメリカの作家、リディア・デイヴィスの短い小説を読んでいると、ワタシには、その時間すべてに憑依の静かな残照が聴こえてくるように読める。

 

郵便局から公園に寄らずにまっすぐホームセンターや図書館に行くときには、改革派教会とエレイン牧師の住居の前を通る。大きな家だが、彼女ひとりで住んでいる。家の脇の歩道を太い木の根が押し上げていて、そこを通るときはベビーカーががたごと揺れる。ホームセンターでは、店番をしている二人の女性がいつも赤ん坊に優しい声で話しかけてくる。二人にも子供がいるが、もっと大きくて、学校帰りに店に来て、宿題をやったり、レジを手伝ったりしている。図書館へは、肉屋の前の、町で唯一の信号を渡っていく。帰り道にときどきスーパーに寄って、バナナと牛乳を買う。番組に間に合うように家に戻ると、裏のポーチのノウゼンカズラの脇にベビーカーを置き、赤ん坊を抱いて居間に行き、そのまま床に座る。

(『グレン・グールド』)*2 

 

太い木の根をベビーカーが、がたごと跨ぐときの腕の緊張や痛み、吐息や溜息は消去されている。

がたごとにびっくりした赤ん坊の愚図りやキンキンする泣き声も消去されている。

店番の二人の女性の他愛のない世間話に合わせる愛想笑いの鬱陶しさも消去されている。

店番の女性のウロチョロする目ざわりな子供たちのやかましい声も消去されている。

町でたった一つしかない信号待ちをするうんざりも消去されている。

早く帰ってテレビ番組に間に合わせたいのにスーパーのレジで待たされるイライラも消去されている。

 

淡々と秩序と身体を記述するだけで心のざわめきはそのなかに吸収され世界は充足している。

御しがたい心のざわめきは、ただ抑圧されたのではなく、憑依の残照のなかで穏やかに息をしている。

エレイン牧師も、赤ん坊も、店番の女性たちも、その子供たちも穏やかな秩序や身体のなかに過不足なく存在している。

 

そう、日常を費やしていくのに、これでなんの不足があるだろう。

 

 

真夜中の時間の通り道

 

友人たちに対してはつねに寛大で思いやりが深かったが、直接の触れあいは気が散るし不必要だからと、めったに会おうとはしなかった。実際に会うよりも電話で話すほうがその人の本質がよく見えるというのが彼(注 グールド)の持論だった。彼はよく紅茶のカップを前に置き、友人と長電話をした。それが始まるのはいつも真夜中、彼が仕事にとりかかる前で、それは昼間は眠って、夜の時間を仕事にあてていたからだった。

(『グレン・グールド』)

 

グールドの憑依の空間への通り道、境界は、日常の空間のどこにあったのか、やっぱりね、と言うほかないが真夜中の時間がその通り道だった。

そしてヘプタポッドの足*3のように異様に長い指で執筆したりピアノに向かっている姿を想像すると、ギョッとするような感じもするし、もちろん親愛の情が湧いたりもする。

 

 

*1: 

yusakumf.hatenablog.com

*2:

リディア・デイヴィス『ほとんど記憶のない女』所収、岸本佐和子訳、白水社、2011

*3: 

yusakumf.hatenablog.com