これは
の続きです。
ξ 《話の前半》
実は、『婚姻届に判を捺しただけですが』というクリスマス前に終わるTVドラマを眺めていて思い出したのは
『東京ラブストーリー(1991版)』という、もう30年も前のドラマだ。
この2020版もあるそうだが、今回は関係が無いので観てはいない。
当時、職場で話題になっていたせいか、リアルタイムで観た唯一のTVドラマだった気がする。
最近、無料配信もされているので気軽に観ることができる。
鈴木保奈美も織田裕二も江口洋介も、びっくりするほどの華(はな)があって、この魅力的な3人の、時代をうわっ滑りする早口のテンポ感は今でも目が離せないところがある。
当時、職場の女性たちからは、原作コミックの方がもっと面白いんだよ、と言われた。
(ワタシは知らなかったが)コミックの方がすでに広く読まれ評判だった。
ξ
東京(や札幌のような大都市)に出るということは一人暮らしを意味する。
この主人公たちは全員一人暮らしだ。
地方から大都市に働きに出てくるという浮遊する若者から恋物語が生まれるようになっている。
それがこのTVドラマが明らかに古く感じられる理由だ。
親元から通学する、通勤するといった境遇とはまるで違う。
恐ろしいほどの手持ち無沙汰と、日常のすべてを自分で決めければならない億劫さと、恐ろしいほどの孤独が同時に訪れる。
怠惰に堕ちようと思えばどこまでも堕ちていきそうな「自由」だ。
だから何でもいい、幼馴染との惹かれ合いは直ちに恋愛に変えてしまいたい、職場恋愛でも構わない、職場の上司との不倫でも構わない、とにかく不安な「空白」を埋めてしまいたい。
このうわっ滑りする焦燥や激情の物語は、大都市と地方(故郷)に引き裂かれて観ていた者を引き込み、孤独を癒しまた拡げた。
ξ
当時、職場不倫は必ずあり、『東京ラブストーリー(1991版)』同様、ウワサはすぐに会社中に広まったし、ワタシの耳にも幾つか直接入ってきた。
当事者やその周辺が大げさに騒ぎだせば家庭崩壊や失職するようなドロドロした事態になるだろうが、当該上司も女性も平然と仕事をしていたし周りも見て見ぬふりをするのが普通だった。
「悪徳」上司は、部下たちには親しみやすく責任感もあり信用できる管理職であったかもしれないし、「悪女」は取引先の評判もよく煙草をパカスカふかしながら頼りがいのある先輩であったかもしれない。
忘年会のような大きな飲み会でも、女性はその上司のそばに平然と坐り、喋ったり笑いこけたり、パカスカ煙草をふかしたりしていた。
その頃、社会経験ほとんどゼロのワタシは、大したもんだと思いながら、その「悪女」を眺めていた。
ξ
いまや大都市 対 地方という構図は、物語を生まない。
現在、地方!と口走れば、創生ですか? とか言われそうな、陽にさらされた政治性のそらぞらしい響きが漂う。
大都市 対 地方という対立や郷愁は、エンターテインメントとしては過去のものになっている。
広大な宇宙の中の惑星地球というエンターテインメントの大きさ、規模まで想像してようやく
地球への郷愁が、その無垢さも非政治性も約束され、素直に郷愁としてリアリティを持てるようになっている。
ξ
『東京ラブストーリー(1991版)』のリカ(鈴木)が、懸命に入り込もうとしてできなかった、同郷3人(織田、江口、有森也実)の絆は、陰性の田舎くさい結束でしかなかったと思える。
リカが完治(織田)をさんざん翻弄する「あどけない」「幼稚」な振舞いも、しきりに完治が通った田舎の学校に行ってみたがるのも、過去の空間を共有しようとする退行にみえる。
この時代の「悪女」という感性は、1970年代半ば以降に日本に溢れ始めた、資本主義的消費文化の象徴である。
しかしリカに「悪女」と呼べるような都会的なシニカルな虚無はどこにもない。*1
むしろ、さとみ(有森)のほうが、地縁血縁の世界にガツッと根を張った「悪女」のように見えるかもしれない。
遠く離れた地方への、過去の空間への郷愁が、このTVドラマの古さを感じさせる理由になっている。
それは大都市一極集中という一貫して続いた変化の重みのせいだったから仕方がないともいえる。
これは『婚姻届に判を捺しただけですが』(2021)のような恋愛ドラマとは、大きく違っている。(その2/2に続く)