続 ・ たかがリウマチ、じたばたしない。

このブログは「たかがリウマチ、じたばたしない。」の続きです。喰うために生活することも、病気でいることも闘いです。その力を抜くこと、息を抜くことに関心があります。

海の魚(うお)になりたくてたまらない、海を自由に、滑るように北へ東へ行きたくてたまらない人々  その1/2

これは

北へ 、遠くへ

の続きです。

 

ξ

民俗学者柳田国男(1875~1962)は、『海上の道』まえがきで、次のように述べている。

 

日本人の渡来を問題にするとき、東海岸の航路を取り上げざるを得ない。

どの辺にはじめて上陸したかについては、いろいろな説が成り立ち得るが、日向の高千穂に天から降りたということを承認すれば問題にならぬけれども、それがあり得べからざることとすれば、やはり日向などで船を仕立てて北上したことが想像される。

神武天皇の御東征にしても、の激しく、の強い関門海峡を通らずに、じかに東海岸からずっと瀬戸内海に入ってしまわれたのだから、東西二つの交通路を並べていうと、東の方が一時代古いということは言えそうである。

 

柳田は、列島本土と沖縄諸島を連ねる交通路において、はるか古い時代の航路は東海岸のほうが便利であったと述べ

 

遠浅の砂浜が多く、短距離を航海しながら船を陸に上げて宿をとり、話がつけばしばらくの間、あがったところに滞在することもできた。

むかしは一年に一回航海すればよかったので、年内に再びやってこようなどとは考えなかったのである。

 

と記している。

また別のところでは、漂流した者が、なんと20年以上、潮と風を観察し続け、島を脱出する時節の到来を狙っていたという例を語っている。

悠揚たる驚くべき時間の流れだが、現在のように、あわてて高速観光船に乗り込み、さっさと島めぐりをして日帰りしてしまうワタシたちには想像しがたい時間感覚である。

 

つまり地表にただ立っていれば何事も起きていないようにみえるのだが、根気よく俯瞰してみれば、ポツンポツンと島から島へ渡っていくワタシたちの祖先の姿が見えることになる。

柳田の文章は、こういう壮大な想像力のタマモノに満ちている。 

 

日本近海の海流(コトバンクから)

 

ξ

日本人の由来を考える時、縄文以前の遺跡の人骨のDNA解析や、現代人の何らかのウイルス・キャリア分布のような遺伝的な分析結果を利用できる。

しかしこれは混血の度合いや特有の遺伝形質の度合いを示してはいるが、いつ、どのように人類が移動してきたのかはっきりしない。

いわば空間軸の分布であり、かつてどのように移動したか考古学的、人類学的、民俗学的な時間軸の分布を加えなければ由来を推定できない。

 

たとえばユーラシア大陸の「ある地域」の人々と、日本人の遺伝子構成が酷似しているとしても「ある地域」が日本人の起源だと推定することはまったくできない。

「ある地域」に、人々が、いつ、どこから来て住みついたのか分からなければならない。

それによって「ある地域」と日本人の共通の祖先が、実は別に居たという可能性すら出てくる。

 

もっと身近に言えば、南西諸島と、今の列島の「ある地域」の人々の遺伝子構成が似ていたとしても、南島の人々が遥かな昔、北上して混血したとは単純には断定できない。

列島の「ある地域」の人々が、かつて南島に、漁労や採集や交易の目的で住みついたということがありえるからだ。つまり文化史的考察が不可欠になる。

 

ξ

人は空間軸をたどったり、あるいは時間軸をたどることによって自分自身の「来し方」を、ある程度わかるようになる。

ワタシたちがそういう志向を持って臨むなら、どちらの軸であれ自身の「旅路」と言うほかないものである。

 

日本列島に住む人々の由来は、空間軸、時間軸分布の両側から想像してみるほかはないが、最近の遺伝学上、考古学上、人類学上などの様々な知見からいろいろ想像しやすくなっているのは間違いない。

そこでワタシも大雑把に、次のように想像してみる。

 

<第1期>

DNA分析によれば縄文人は、現代の日本人・中国人とも東南アジア人とも、強い近縁関係は見られなかったそうだ。

つまり相当古い人種であるか、大陸東端で独自に進化した人種であることを示しているようである。

 

およそ10000年前以降の縄文人新石器時代に、先立って大陸東端に住みついていた人々は「先住人類」と呼べるだろう。

かつて海水位(海洋の長期的な平均水位の意味で言う)が低く大陸と陸続きと言ってよい頃に、ユーラシア大陸中央部を起源とするモンゴロイドの分派が、様々な鳥獣とともに大陸東端まで移動していたと考えられる。

北や南、様々な方面からやってきただろうから彼らが単一の人種であったかどうか断定できないが、およそ40000年前には今の列島付近に居た人類といえる。

その先住人類は、遺跡によれば今の列島の南から北まで広い範囲に住んでいたようだ。

 

この大陸東端に移動して住みついた先住人類が、後に述べる縄文人新石器時代の祖先ともなった。

 

<第2期>

海水位が上昇して、または陸が沈下して日本列島が形成されてから

柳田国男が言う「海民」、稲を携えた人々が中国揚子江下流域、東南アジアの島嶼ポリネシアなど環太平洋地域から、潮と風をたよりに、島伝いに北へ向かうようになった。

大陸が殷(古代中国)で栄えた4000年前頃から北へ向かう「海民」の移動がより盛んになったと考えられる。

 

日本神話は日本西南部、明らかに九州(日向)から始まる。

柳田国男は『海上の道』で、結局のところ、九州・四国・中国の島々を経て東に進む支配勢力の神話より前、その前史を考察したことになる。

 

神話に先立つ「海民」は、旧石器時代から先住人類が住んでいた南西諸島から順次、融和したり争ったりしながら北上し混血を深めていったとみられる。

先住人類が見たことも無い稲は、食料としてよりむしろ先進的な宗教儀礼(稲作祭祀)として重要な統一の武器になったろう。

北方の縄文遺跡に稲作栽培跡が無くとも不思議は無い。

こうして縄文人は列島を北上し支配的な人種になった。

縄文人とは、島伝いに日本に移り住んだ「海民」と先住人類との混血ではないかと考えられる。

 

<第3期>

2500年前頃から、主として朝鮮半島経由で大陸からの移住者が多く日本列島に渡るようになり食料としての稲の水田型栽培技術を伝えた。

採集・狩猟・漁労民に対し栽培・農業民と呼べる集落共同体が発生した。

彼ら大陸系の移住者(渡来人)は、例によって縄文人と争いつつ融和しつつ混血を進めた。これが弥生人であり、現在の日本人(ヤマト民族)のベースとなった。

 

もちろん地域によって遺伝子の濃淡はある。

都府県別にみると、沖縄、九州、東北は遺伝子的に近縁であるとされる。近畿、四国はそれからもっとも遠いとされる*1

つまり沖縄(南西諸島)・九州・東北はいくらか縄文系、近畿・四国はいくらか渡来人系に傾いていると言えるようである。

 

ξ

以上のワタシの想像をまとめれば次のようになる。

❶ およそ40000年前にはユーラシア大陸の人々(先住人類)が鳥獣と同様に東進してきた

❷ およそ10000年前から徐々に環太平洋地域から北上してきた「海民」と先住人類が混血して縄文人となった。

❸ およそ2500年前からの大陸からの渡来人と縄文人が混血して弥生人となった。

 

ワタシが関心を抱くのは、のちに漢字にも残された原日本語を話していただろう原日本人、❷の(主として)縄文の人々である。*2

《2/2に続く》