これは
「幸福」とはどのようなものか、知ってみる その4/4 ~ くつろぐ思考
の続きです。
ξ
人間はそもそも公平でも平等でもない。
「近代」思想にヘタに汚染されなければ誰にもわかっていることだ。
非モテの救済策などはない。
仕方ないので非モテ男子は、懸命にカネを稼ぐことにエネルギーを投じる。
カネがあればモテ側に回ることはハッキリしている。
怠惰でカネを稼ぐことを最初から放棄しているくせに、カネがあったところでモテるわけではない、などと負け惜しみをブツブツ言う者がいる。
カネがあったところでモテるとは限らない、とはカネモチ限定のセリフである。
モテる境遇は拡大できるはずだと信じて稼ぐこと、ネアカに自分磨きに懸命になることが正しい。
その結果、大した成果が無かった、ということはあり得る。
だからモテないという意味では「敗者」になる。
実際にはほどほどの勝者とほどほどの敗者から世の中の大部分は成っている。
机上の脳だけで考えると勝者と敗者に二分された世の中の虚像にアレコレ振り回されることになる。
『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』(谷川ニコ)とぼやいてもちろん構わない。
モテない理由は本人に帰すものと社会・他者に帰すものと両方ある。*1
その結果、「敗者」の人生を噛みしめて生きることになる。
これは誰にもフツーにあることであり、それだけのことである。
その「敗者」の人生、時間が経って年を取れば、ちょっといいこともあるぞ、と言いたくもある。
ざっくばらんに言えば資本主義社会は
創意工夫してどこまでも際限なく貨幣を蓄積していく魅力(カネがあってこそモノが言える世の中!)と
貨幣という価値に圧倒的に脅かされた、数えきれない(身体や心の)消尽や諦念や感傷や絶望と
どう折り合いをつけるかという課題を生む。
これを一人の人間の内に潜む課題としてみれば、考えつづけることによって・・・
自身の生活思想に、穏やかな豊かさを付け加えることができるように思える。
また、これを人々の間の課題、社会を構成する層の課題としてみれば、考えつづけることによって
「ポスト資本主義」「資本主義後」という未解決の世界的課題にタッチできそうに、届くことができそうに思える。
からである。
ξ
もうすぐ交代する日銀黒田総裁の業績について、よく議論されるようになっている。
それらの評価のうち庶民目線で見ても間違いないだろうと思えるのは
いくら国債を買入れても、成長も、その失敗としてのハイパーインフレも起こすことはなかった、できなかった、ということだ。
今のインフレは海外原材料主体のコストプッシュインフレであり、2%の持続的成長ができなかったことは黒田総裁自身が振りかえって認めざるを得なかった。
この10年間、リフレ派も、脅しをかけた反リフレ派も当たらなかった。
なぜか。
本当は、再び需要が力強く起きるかどうかが問題だった。
需要増=消費支出増 ➡ 消費者物価上昇 ➡ 賃上げ気運 ➡ 賃上げ ➡ 可処分所得増(家計貯蓄増) ➡ 消費支出増
のような成長が起きるかどうか。
しかし企業もカネアマリのなか、当初から金融政策だけでどうにかなるとは思っていなかったろう。
(ワタシの関係した会社では銀行からの借入なく内部留保で大型設備投資ができた。だから物凄い低金利で、メインバンクの顔を潰さない程度の借入を取り繕った「ゆとり」の経験がある。今思えば、この大型設備投資は更新に過ぎなかったし社員の賃金増にも関係なかった)
つまり需要が不足したままでは、賃金上昇や企業の投資増による成長は起こらない。
ξ
ワタシは、仲間が信じられ、家族が信じられ、会社が信じられ、世の中も何となく信じられ、そして未来も何となく信じられる楽天性、肯定性がメジャーであるような世界で
毎日元気に会社に行き、恋愛をして、泣き笑いのうちに、ちゃんと経済が回る時代が、これからどのように可能か思案している。
だからといって、働く世代真っ只中の、少なくない人々が
次のような事態は、本気で毛嫌いしているような気がする。
《だから財政出動して少子高齢化の日本に活力を取り戻す、防衛費の増大どんどんOK、低賃金外国人労働者の移住どんどんOK、富裕中国人による土地・水源・ビルの買占めどんどんOK、GDP増大に寄与する外国人の活躍こそ日本を救う。GDP(GDP呪縛)こそ政治の正義、そのために日本人に能力が無いなら有能な外国人を札ビラで取り込む、20世紀以来の安易さで何が悪い、銭の戦争だ!》
1995年には日本のGDPの世界シェアは18%もあったが、現在は何と6%以下、国際的影響力は明らかに下がった。もはやゆったりと中進国化している。
ワタシも、上記のような政治の正義を本気で毛嫌いしているので、「敗者」のように*2 *3抵抗していくだろう。抵抗とは、ワタシ自身の肉体的激突からワタシ自身の逃亡までを含んでいる。
誰に頼まれたわけでもない、洗脳か強制の詰まらぬ使命感をかざして、(世の中のために)「闘う」などとは決して言わない。