これは
海の魚(うお)になりたくてたまらない、海を自由に、滑るように北へ東へ行きたくてたまらない人々 その1/2
の続きです。
ξ
日本人の文化的な原郷を考える時、南方揚子江下流域や東南アジアの島嶼や太平洋の島々、つまり環太平洋地域の先住民族に起源を持つ習俗・儀礼と共通するものが日本に遺されていたことが手掛かりになる。
気にしているのは、その文化的・宗教的な感性の由来、ルーツであり、ワタシは漠然と次のように想像してきた。
ワタシたちの感性は、ユーラシア(ユーロ+アジア)大陸で興隆した、ヨーロッパ思想や中国思想などとはまるで無関係な場所で、二千年近く前には、その宗教的感性ともどもすっかり完成されていたのではないか。
だからその後現代まで、様々な表現は、外来思想や外来宗教に影響され、その感性をひねり回してみたり、屈折させてみたりしてきただけではないのか。
ワタシたちは現在、万葉の時代以前には完成していた日本人固有の感性を、繰り返しいじり回しているだけではないのか。
ξ
日本列島の西端にたどり着いたワタシたちの祖先は
後ようやくに、寒い大きな島に移って行き、陸上の美しい色彩に目を転じなければならぬような境涯 (柳田国男『宝貝のこと』、1950)
を味わうことになる。
関心は陸上に向かい、次第に荒ぶる海を忘れていったかのようにみえる。
やがてその美意識は
平安朝に、もののあはれ、幽玄に行き着く。
さらに中世には、中国・宋の時代の道教に起源を持ち禅宗(仏教)を通じて日本にもたらされアレンジされたワビ・サビが、あたかも日本人そもそもの美意識であったがごとく<仮構>された。
それは
・・・咲く花の 薫(にほ)ふがごとく 今盛りなり (巻三、三二八)
といった、朗らかに開放された美意識からは遥かに遠ざかった、静寂で、禁欲的な、かつてない美意識だった。
ワタシたちの祖先はいつしか波打つ海浜を忘れ、大陸的な冷涼な美を自身のものであるかのように<仮構>してしまったと思える。
ξ
縄文人の人骨からは、(櫓を漕ぐ)その上腕のたくましさ、太く発達したものが発見されている。
彼らは、海の魚(うお)になりたくてたまらない、海を自由に、滑るように北へ東へ行きたくてたまらない、そういう海の怒涛の雄たけびを愛してやまない筋肉質、上半身しゃく銅色の人々ではなかったか。
遠い、しかし胸の高鳴るような記憶だ。
問題は結局するところ、いわゆる曲玉(まがたま)の芸術文化が、外から入って来たか、内にあるものが、変転して来たか。
仮にあの材料の石類が皆手近にあったとしても、あれを斫(き)り研(みが)き磨(す)って穴をあける技術が備わるまで、頸に玉を貫いて掛ける風習が、始まらずに待っていたか。
それとも最初には海から採り上げた色々の貝の中の、最も鮮麗なるものを選び用いる趣味がすでに普及していて、南の島々で見るように、特に獲難い石類にあこがれる傾向をうながしたか、親しく南北洋上の島々について、今後は日本人が比較参照すべき問題であろうと思う。
珠玉をまとう好みは、何だか近頃は毛皮の民族から学ぶようにも感じられるが、最初はどう考えても裸の国、暖かい海のほとりの社会に始まるべきものだった。
ここでは習俗伝承の事実から、古代の人々が、西南の珊瑚礁にみられる宝貝のように艶のある美しい貝をつないで、後の代の、勾玉(石)などよりずっと早くから、宗教的に欠かせないものとして頸から掛けていたはず、と考えられている。
勾玉をかける慣習は、冷涼な大陸からではなく、「裸の国、暖かい海のほとりの社会」から始まったに違いないと考えられている。
そして引用した万葉の一首は次のようなものだ。
妹(いも)がため われ玉拾(ひり)ふ 沖辺(おきへ)なる玉寄せ持ち来(こ) 沖つ白波 (巻九、一六六五)
ーーー 都に居るあなたのために私は玉を拾っている、沖の白波よ! その沖の美しい玉を波で寄せて持って来てくれ
柳田国男は、「玉」とは「小石ではなく、真珠ではもちろんなかったろう」(=美しい貝)と記している。
ワタシは、日本人がそもそも「流浪の民」、波と共に生きた骨太の、陽に焼けたしゃく銅色の民を起源に持つことに、ワクワクしている。
それは20世紀からのポストモダンに汚染され、多様性だの差異性だの、何か意味ありげに口走り、その結果オドオド何ひとつ決め打ちできず口ごもり、青白い顔をした神経症の昨今とは無関係な、1万年前からのワタシたちの本質である。*1