これは
続 ・ 日本人の「活気」と「ゆとり」はいつから消えたのだろう ~ ゲイテッド・コミュニティに向かう
の続きです。
ξ
上の記事をアップした直後、次のようなニュースを読みました。
マンションもう買えない パワーカップルも降参
富裕層・海外マネー流入、平均1億円突破
「まさに宝くじだ」。東京五輪・パラリンピック選手村跡地のマンション「ハルミフラッグ」(東京・中央)。7月に実施されたタワー棟の第1期販売の抽選倍率が明らかになると、SNS上では驚きの声が相次いだ。
今回販売した573戸に対し申し込みは8790組で、平均倍率は15倍。
最上階の広さ161平方メートルの3LDK住戸は3億4990万円と最高額にもかかわらず、倍率は142倍に達した。・・・
https://www.nikkei.com/article/DGKKZO73152430Y3A720C2K10100/
ξ
日本や海外の超富裕層は、この程度のカネなどどうということもないのでしょうし、富裕層特有のゲイテッド・コミュニティへの実需や、それを見込んだ投資といった両面から大きな需要があるのだと思えます。
もうひとつ、こうした流れには、日本の人口減を受けて、日本に滞在・定住しようとする外国人は、ごく近い将来に政治的にも経済的にも日本人並みに厚く処遇されるはずだという読みがあると思えるのです。(政府は外国人の招致に躍起だ。)
つまり外国人にとって日本は、富裕層・労働者層いずれにとっても定住先として「おいしい」と思われているでしょう。*1
こうして日本人の多くは、希望の住宅を所有することがますますできなくなり、富裕層とそれら以外は、はっきりと棲み分けられていくことになります。
単純な話し、ざわついた有象無象のアウトサイド・オブ・ゲイトでは「法と秩序」なる言葉が飛び交い、警察権力が圧倒的に強化され安定化が図られるでしょう。
これはユートピアというべきか、ディストピアというべきか。*2
ξ
都市論で論じられてきた都市とはどのようなものでしょう。
都会というエリアを考えたとき、政治・経済の中心としての都市と巷(ちまた)が対立する概念として論じられたそうです。
確かに都市といえば、高層のオフィスの広いガラス越しに、夜のウォール街の林立するビルの、決して消えることのない不夜城の窓灯りの群れを眺めているような世界を思います。(傑作映画『マージン・コール』(2011)を思い出します。)
しかし、都会というものは本来、「都」と「巷」の中間にあって、人々の生活に一種の晴れの舞台を提供する場所だったはずです。*3
近未来SFを観ると、都市的世界では、ユートピアであれディストピアであれ、例外なく情報は一方的に統制されるか大きく制限されています。
実際には、都市と巷が混合した中間的な場所(都会)で初めて、雑踏も秩序も何はともあれ両立し、くつろぎながらも一定の緊張を味わう場所となり、それゆえに、多くのさまざまな情報が活発に生み出され流通する望ましい世界となるはずです。
1960~1970年代にかけて伸び行く商業資本に誘導されて明らかにその実現の兆しがありました。
これこそ「ゆとり」と「活気」のおおもとだったと思われます。
ユートピアかディストピアか、そんな二分法で絶望や憎悪を振りまくのではなく
その中間に、イキイキとしたしかも穏やかに呼吸のできる空間があるのではないか
都会において優雅に私的生活を満喫しながら、世の中の苦労に対しても自分のペースでコツコツと、かつ積極的に行動対処していく空間があるのではないか
今でもそういう態勢、生き方は見つけることができるはずだと、ワタシはワクワクしています。