続 ・ たかがリウマチ、じたばたしない。

このブログは「たかがリウマチ、じたばたしない。」の続きです。喰うために生活することも、病気でいることも闘いです。その力を抜くこと、息を抜くことに関心があります。

「29歳のクリスマス」の頃

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クリスマスの女王と言われてきたマライア・キャリーのクリスマス特番が公開されている。

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https://jp.reuters.com/video/watch/idOWjpvC837K0OTRRM2TTSBZB7OVVXUJR

theriver.jp

 

1994年のTVドラマ「29歳のクリスマス」は、この恋人たちのクリスマス(1994年リリース)という、あまりにも有名になった歌が主題歌だった。 

 

 このクリスマスドラマは、1994年の10月20日から始まりクリスマス直前の12月22日に最終回を迎えている。*1

 

ワタシはこのドラマを、ほんの数年前、まだ寝たり起きたりの頃、真っ昼間の再放送で初めて観た。

山口智子松下由樹柳葉敏郎も全盛期と言えそうな若さがあって、バブル崩壊後の転落不安と向かい合いながら人生の選択肢を「勢い」で決断していくような危うさと清々しさがあった。

マライア・キャリーの、翳りのないテンポのよい主題歌もマッチしていた。

 

平均視聴率は22.2%、クリスマス直前の最終回は26.9%というたいへんな視聴率だったらしい。

 

当時このドラマを、バラバラとつながりもなく個人化(ウルリヒ・ベック)していく恐怖をうっすら感じながら観ていた若者は

山口智子松下由樹の、地面を這いつくばるかもしれない非・常識、捨て鉢にみえる選択の矜持のようなものに共感していたかもしれない。

 

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現在のように流動性が極端に小さく、わけへだてがハッキリしている時代では、ワタシたちはすでにバラバラ、それぞれ不可侵の「たまり場」に籠って周囲を見回しているようにみえる。

 

現在、マイノリティが次第に豊かな言葉を生み出しつつあるのに対し、むしろマジョリティ(健常者であるシスヘテロも!)の方の転落ないしは停滞の苦悩を絞り出す語彙がおそろしく不足しているのが実感できる。

これは中間層の没落という先進国を共通的に覆う危機に起因としているという杉田俊介氏/批評家(2017)ほか)

マジョリティに属すならほとんど抑圧無く生きていけるというフィクションは大きな間違いだといえる。

 

社会の制度や行事や企みは、ほおっておいても、自分以外の誰かや商業や政治が決めていく。

となれば自分は傷つかないよう、相手を傷つけないよう、これ以上は相手から触れられないよう、これ以上は相手にも入り込んでいかないよう「たまり場」に籠ったままが一番居心地がよい。

だからワタシたちの多くは、言葉も態度も規範的、通俗的であることを免れない。

規範的、通俗的とは、どこかで何度でも聞いたことのある手あかのついた語彙(思考)でできている、という意味である。

 

その限界を超えようとすると、フェイスシールドで囲まれた自身の「たまり場」を壊さなければならない。

それは恐怖だから、身体的にも心的にも規範的、通俗的でありたいと思う。

 

言葉も態度も、つまり友情も恋愛も身の程をわきまえ規範的、通俗的な水準を超えないように心がける。

それでダメならそれ以上は望まないで済ますようにする。

 

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「この恋あたためますか」(あるローカルテレビ局が、「おにぎりあたためますか」というショーもない番組を長くやっていて、何か関係があるのかと思って観てみたという単純なきっかけ)

という恋愛ドラマもクリスマス前に最終回を迎えるはずのドラマだ。

 

我が家は夜10時以降はテレビはつけていないので、「この恋あたためますか」はGYAO!の無料配信で一日遅れくらいで観ている。

 

これは主人公4人それぞれが典型的にフェイスシールドの内の「たまり場」で呼吸しているようなドラマである。

コンビニバイトの若い女性が急に本社正社員になったり

元社長が突然コンビニの見習い従業員になったり

下っ端のバイトと元社長がいきなりタメ口で話し始めたり

社長だろうがバイトだろうが同世代的な若い感性の方を前面に出して騒いでいる。

その分、オトモダチ感覚の会話の流れ・雰囲気は弾んでいる。

半沢直樹(2020)のような頭取から子会社社員まで序列どおりに並ばされた劇場型企業ドラマの正反対にあるようなドラマだ。

 

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このドラマでは、現実社会や企業社会の固定化された階層も上下関係も貧富の差もそれぞれの生活苦も、心の世界からはきれいに除外されている。

残されたものは、若者だけのワイワイした肩の凝らないつながりと、生きがいのショートカットされた実現と、恋愛の駆け引きだけになっている。

社長もバイトもない縦が横に開かれたつながりや、ショートカットな生きがい(褒められたい、よく頑張ったと言われたい)や、ちょっとした恋愛の成就といった理想世界を見せ続ける。

 

努力してひとかどの人物にはなりたい、生活費くらいは稼げるよう働きたい、好きな人と一緒にいたい。

ワタシはこのドラマの現在的な小ささや軽さは、まったく気にならない。

それは虚弱で、何かあれば吹き飛ばされそうな夢世界かもしれないが、そこらへんで生きることの大切さやリアリティは少しも忘れられていない。

  

90年代が社会から転落し隔てられていく恐怖なら、今は自分のフェイスシールドを引っぱがされる恐怖といえるかもしれない。

良いか悪いか、引っぱがされない限り、汗臭くなくカッコよくスベスベして淡白だ。

 

もはや90年代のクリスマスの風俗は、いくらか濃厚すぎるかもしれないが

そこらへんで生きることの大切さやリアリティは今も同じと思えば、まだ振り返ってみることのできる夢世界ではないだろうか。 *2